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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    四 武田氏の地位と信賢の活動
      武田氏の系譜と地位
 永享十二年(一四四〇)五月、一色氏に替わって守護となった武田氏は、以後一三〇年にわたって若狭を支配することになる。この武田氏は南北朝初期に甲斐武田氏から分かれた支流で、若狭守護になるまでは安芸の守護であった。ただし安芸一国の守護職にあったのは応安三年(一三七〇)ごろまでで、以後は安芸中央部の一部の郡(最終的には三〜四郡)にのみ守護権を有する、いわゆる分郡守護であった。しかしその家格は決して低くはなく、初めて若狭守護となった信栄は将軍義教の相伴衆二五名のなかに列していた(「永享以来御番帳」)。相伴衆とは、将軍の守護家訪問などにさいしてその供奉などをする者で、守護やその一族から器量の者が選ばれたといわれ、三管領・四職に次ぐ格とされる。
図33 武田氏略系図

図33 武田氏略系図

 信栄は一色義貫を討って若狭守護職・尾張国知多郡を拝領すると、翌六月さっそく若狭に下向したが、病気に「邪気」も加わって、七月二十三日に二八歳の若さで没してしまった(『師郷記』同日条)。遺児の有無はわからないが、家督は次弟の信賢(二一歳)が継いだ。なお、尾張国知多郡はおそらく信栄の死とともに一色教親に還付されたものと思われる(醍醐寺文書四三一号『新編一宮市史』資料編六)。



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