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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    三 一色氏の荘園支配
      一色氏の荘園支配
図32 室町期太良荘年貢における守護方への支出分

図32 室町期太良荘年貢における守護方への支出分
 注1 現米分は当該年の米価で銭高に換算。
 注2 応永34年以降の内訳は省略。

 以上みてきた守護役の数量的推移をみるため、太良荘年貢における守護方への支出分(段銭・役夫工米を除く)の変化を示したのが図32である。これによれば、守護方への支出分は応永年間を通じて大局的には漸増していき、同三十四年にいっきに約四六貫文の頂点に達したあと急減している。応永年間の増加は、守護役そのものの増加もあろうが、守護夫などを年貢からの下行分として東寺に認めさせていった百姓の闘いの跡でもある。応永三十四年に代表されるように、陣夫や兵粮米などの臨時役が守護役全体を押し上げることは確かにあったが、細かくみると守護役のなかには前にみたように定量化されたものが少なくなく、守護と百姓の間には役をめぐって一種の慣行が成立していたことも事実である。その点は、守護役の下行分に関する東寺と百姓の間にも同様のことがいえる。
 永享六年に太良荘の諸役免除・守護不入を認める幕府御教書が出たあと、礼銭を除く守護役が実際になくなるのは、若狭において幕府の権威、ひいては幕府が維持しようとした荘園制的秩序(職の秩序)が、まだ命脈を保っていたことを示している。一色氏は太良荘の半済を最後まで解消しなかったものの、次の武田氏の時代のように、半済方に給人もしくはその代官が入部して支配を強化し、やがて本所方まで侵略するようなことはなかった。総じて一色氏の荘園支配は、職の秩序を破壊することなく、その枠のなかで進められていたといえよう。
 



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