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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    三 一色氏の荘園支配
      幕府への役
 室町期の守護は、幕府から委託されて徴収する役のほかに、自らの必要に供するさまざまな役(守護役)を任国に賦課した(図31)。
図31 室町期守護の催促・徴収する諸役

図31 室町期守護の催促・徴収する諸役


表28 若狭に賦課された段銭・役夫工米(一)

表28 若狭に賦課された段銭・役夫工米(一)

 まず段銭は、朝廷の重要行事や大寺社造営さらには幕府の必要に応じて、全国もしくは特定の国に対し公田(大田文登録田地)を対象に賦課される臨時税である。徴収権は本来朝廷にあったが、南北朝期に幕府に移行して以後、守護が実際の徴収にあたるようになった。役夫工米は伊勢神宮の造営費に充てるもので、段銭の一種とみてよい。明徳元年(一三九〇)以後、一色氏支配期の若狭で確認される段銭・役夫工米は表28のとおりである。太良荘はほとんどの場合、免除か京済(京都で直接幕府に支払う方式)が認められたが、そのためには一献料(役人への礼銭)を必要とし、それは結局百姓に転嫁された。応永十九年の大嘗会段銭のとき幕府から免除状が出たが、一色氏の指定した納入期限に間に合わなかったため守護使が入部し、まず二貫文を徴収しながら、請取状の額面は一貫七〇〇文として残りは「装束」(付加税)としてしまった(ル函一三三)。そのうえ守護使の接待に一貫文を要した百姓は、東寺の請求する京都での一献料三貫文を二貫文に減じてほしいと訴えている(ツ函一〇四)。このように、守護使の入部には必要以上の出費をともなったから、東寺も百姓も免除が無理ならせめて京済でもと願ったのである。守護勢力にとっては、段銭そのものは幕府に納めるものであっても、右にみたように徴収過程で一定の収益を得ることができた。また何よりも、段銭徴収を重ねるなかで、大田文を管理する国衙機構と小守護代以下の在国守護支配機構を合わせた徴税体制が形成され、それが守護段銭成立の条件を整備することとなった点が重要である。
 地頭・御家人役には、鎌倉期以来の幕府諸行事費・建物造営費と幕府下級役人の俸給の二種があり、守護を通じて納入された。太良荘では、南北朝期には多様な役が課せられたが次第に減少していき、応永十六年以降は節供・椀飯・修理替・采女養の各料足(合計二貫五〇〇文)に固定された。それも永享六年三月幕府から太良荘の「守護不入」が確認されて以後はなくなる(フ函九八)。これら地頭・御家人役は段銭と異なり年貢から支出されたが、守護使入部のさいにはやはり余分の出費をともなったと思われる。



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