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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    三 一色氏の荘園支配
      半済
 南北朝期に始まった半済は、室町期にもそのまま引き継がれた。太良荘では応永二十年(一四一三)、実に三四年ぶりに東寺の一円支配を確認する幕府御教書が出た(ノ函一五六)。しかし一色氏はこれを無視し続け、同三十三年に同様の御教書を突きつけられたときには、これを押収してしまった(ノ函一八三)。ついで将軍義教の代には三度も幕府の使者が遣わされたが、一色氏は大和出陣などを口実に半済停止を引き延ばし(同前)、結局太良荘の半済は解消されなかった。
 室町期の太良荘半済給人で名前のわかるのは、永享元年(一四二九)ごろの吉原氏(丹後国吉原荘を本拠とする一色氏一族で在京している)ぐらいであるが(し函二〇〇)、おおむね在京する一色重臣であったとみられる。給人のもとにいる代官は「毎年御替り候」といわれ(ツ函八九)、応永十四年の南禅寺瑞雲庵(し函二八五)、翌十五年の相国寺大徳院(タ函七二)のように京都の禅宗寺院が多かった。現地に下って実際の年貢収納を行なうのは「庄主」とよばれる一種の請負人であったが、彼らもまた京都の僧侶が多かった。このように太良荘では、半済方を支配する給人・代官・庄主のいずれもが京都に足場を置く人びとであって、基本的には東寺による支配と質的違いはなかったといえる。
 しかし永享九年、遠敷郡国富荘について半済停止の幕命が下されたさい、小守護代松山乗栄はこれを無視して大勢の使者を入れ、女性や子供を人質にとって年貢・段銭の請文(納入誓約書)を強制的に書かせ、翌十年正月には百姓の家を差し押さえ家財道具を押収してしまった(『壬生家文書』三三六・三三七号)。あるいは松山は国富荘の半済給人であったのかもしれないが、もしそうだとしても、彼のこの行為は、幕府・守護権力の末端を担う立場にありながら、幕府が維持しようとした荘園制的秩序を実力によって破壊することにつながるものであった。



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