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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    二 一色氏の国衙掌握と領国支配機構
      守護代三方氏の権勢
 室町期の一色氏の若狭支配を支えたのは守護代三方氏である。三方氏は鎌倉期の守護若狭忠季の子孫と思われるが、元弘三年(一三三三)ごろには、本拠としていた三方郡三方郷の在地名をとって三方氏を名乗っている(『教王護国寺文書』三一五号)。一色氏との結びつきを特に強めたのはおそらく室町期に入ってからで、応永十三年の小笠原長春の失脚によって三方範忠が若狭守護代に起用された。小笠原長春の失脚の原因はよくわからないが、「守護職次第」は小浜八幡宮の裏山で鹿狩をした祟りとの噂を伝えている。長春はこれより先、応永六年六月に今富名の「里方名・散田・寺社・人給」らの逃散によって同名代官職を解任されている(「税所次第」)。これらの事実は、守護代小笠原氏が若狭の人びとから反感をかっていたことをうかがわせるもので、応安の国一揆以降もまだ守護権力は在地を十分掌握しきれていなかったとみられる。小笠原氏に替わる新しい守護代に鎌倉期以来の在地国人三方氏、そして小守護代に武田氏と同じく一色氏の守護就任以前から若狭にいた長法寺氏を起用したのは、あるいはそうした状況を考慮した結果なのかもしれない。
 三方範忠は応永二十一年今富名代官職を獲得しており、同二十五年には侍所所司代、丹後・山城両守護代の在職が確認されるなど(『満済准后日記』)、短期間のうちに一色家中最高の政治的地位を確立した。この間の若狭守護代としての範忠の動きをみると、前代の小笠原氏が自らは在京して小守護代武田氏を上洛させていたのとは対照的に、就任当初からほとんど連年にわたって京都から若狭に下向しており、応永十六年には守護代宿所を遠敷郡開発保塩浜に移すなど(「守護職次第」)、若狭経営に対して積極的な姿勢を示している。同二十一年になると、範忠は彼の三男範次とみられる三方若狭守を小守護代とは別に自分の代官に任じたが、この若狭守は同二十七年以降在国する守護代となった(フ函九〇、リ函一〇七、ハ函一四九など)。永享年間(一四二九〜四一)に小守護代が長法寺氏から松山氏に替わると、とたんに三方氏の若狭下向がなくなるが、これはそれまでの三方若狭守の役目を松山氏が果たすべく期待されたものと推測される。このように、守護・守護代という守護権力の中枢が京都に引きつけられていた室町期にあっては、小守護代を上洛させたり、守護代自身やその近親が若狭に下ったり、さらには守護権力のより忠実な手足となる者を小守護代として下すなど、さまざまな方法によって絶えず京都から在地の支配機構に守護の権威を注入し続ける必要があったのである。そして、その施策は三方氏の力に負うところが大きかったものと思われる。



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