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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    二 一色氏の国衙掌握と領国支配機構
      小守護代と在国奉行
 守護代については三方氏を中心に後述することにして、小守護代と在国奉行についてみてみよう。先にみたように、小守護代武田と在国奉行浄玖は連署で段銭配符を出している。配符はのち留守所下文となるが、この二人は応永十二年にも明通寺に段銭以下諸役の免除を保証しているように(資9 明通寺文書四五号)、依然として諸役徴収責任者の地位にあった。訴訟の処理においては実例を示すことはできないものの、小守護代武田は当然かかわったと思われるが、応永十一・十二年の遠敷郡多烏・汲部両浦の争いは浄玖のことと思われる「津田殿」に提訴されている(秦文書一〇五・一〇六号)。このように、小守護代武田と奉行浄玖の間の差はそれほど大きくはなかったようである。とはいえ、遠敷郡太良荘の公文弁祐が諸役の免除や恒枝保との相論などで交渉する相手は武田であったし(し函五四、リ函二五九)、武田はしばしば上洛もしているので、京都と若狭を結ぶ要の立場で一色氏の若狭経営の中枢を担ったのは、やはり小守護代武田であったというべきであろう。
 応永十三年の小笠原氏の失脚にともない、小守護代も武田長盛から長法寺納に替えられた(「税所次第」)。長法寺氏も武田氏と同じく、一色氏入部以前の若狭で活動が認められるから(『大徳寺文書』一三六号)、一色氏の根本被官ではなく、あるいは南北朝期になってから若狭に来住した武士ではないかと思われる。在国奉行の方は勢間・兼田両氏の名が知られるが、かつて浄玖が武田と肩を並べていたのとは異なり、「両奉行」とよばれたように二人の固定した組み合わせで小守護代長法寺の下位に明確に位置づけられ、長法寺の被官となっている(フ函九〇、ハ函一四一)。彼らの任務の一つに段銭請取状の発行があった(ル函一三二)。なお、勢間は応永年間ごろ遠敷郡熊野村政所谷に屋敷を構えて「勢間長者」と称された者のことと思われる(資9 羽賀寺文書二七号)。兼田はのちの在国奉行包枝氏とおそらく同家か一族で、鎌倉期の国御家人包枝氏の流れをくみ、遠敷郡の兼田を本拠とした武士であろう(本章三節四参照)。
 永享元年(一四二九)、長法寺に替わって小守護代となった松山三郎左衛門入道乗栄の素性は全くわからないが、少なくとも就任時には京都から下向しており(し函二〇〇)、長法寺に比べると若狭へのなじみは薄かったとみられる。小守護代の交替にともなって在国奉行も替わったらしく、永享元年以降、包枝・中村両氏が「両奉行」として太良荘から毎年計六〇〇文の礼銭を受け取っているが、包枝氏は先の兼田氏のことかもしれない。



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