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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    二 一色氏の国衙掌握と領国支配機構
      一色氏の国衙掌握
 税所今富名がまだ山名氏の領有下にあった嘉慶元年(一三八七)、若狭に賀茂造営・公家進等要脚段銭が賦課された。このとき一色氏は小守護代武田重信と奉行浄玖の連署による配符(納入命令書)を出しているが(『教王護国寺文書』六四一号)、翌二年または翌三年に若狭国衙も留守所下文の配符を下しており(ネ函二四〇)、国衙が一色氏から独立していたことを確認できる。そののち明徳三年(一三九二)、一色詮範は税所今富名を得て、ここに一色氏は初めて若狭の一元的支配権を手にした。詮範はさっそく守護代小笠原長房を今富名代官に、小守護代武田重信を同又代官にそれぞれ任じたが、税所代は前代からの海部泰忠を起用して、とりあえず税所の機能を旧態のまま継承した。しかし、応永五年(一三九八)の段銭配符は依然として武田(ただし重信の子長盛)・浄玖の連署となっており(ア函一一一)、段銭徴収方式に変化はみられない。ところが、同十四年(ツ函九七)以降の段銭配符はすべて国衙機構たる留守所の下文となる。すなわち、ここにようやく税所を含む国衙機構全体を守護権力の一機関として機能させるにいたったのである。応永十年、海部泰忠の税所代職が没収されて田所忠俊に替えられたのは、一色氏による国衙機構の吸収という事態を象徴するものといえよう。



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