目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    一 一色氏と幕府
      一色義貫(義範)謀殺
 義教は将軍就任当初から、義範の弟持信を近習として重用していた。例えば義教との対面や物品の贈答は、諸大名はもとより側近の満済でさえ持信を通じて行なっていたし(『満済准后日記』永享元年十月二十九日・同二年正月二十八日条など)、正月恒例の義教からの賜物も、近習のなかで持信だけ諸大名と同じであった(同 正長二年正月十一日・永享二年正月十一日条など)。このような義教の持信偏愛は、それまで培われてきた一色氏と将軍家との信頼関係に微妙な影を落としつつあったと思われるが、持信は永享六年四月二十一日、数年来の「邪気」のため没し(同 同日条)、義範の不安は一応除かれた。しかし、有力守護家の抑圧をめざす義教の目が一色氏から外れることはなく、やがてその矛先は一色義貫(義範)自身に向けられてくる。すなわち永享十二年五月十五日、大和の国人越智氏らを討伐するため出陣していた義貫は、義教の密命を受けた武田信栄から朝食に招かれ、鴟(奈良県桜井市外山)の武田の陣所で襲われて自害したのである。このとき義貫に従っていた三方若狭守・同弾正の二人は最後まで奮戦して討死したという(『師郷記』同日条)。翌日京都では勘解由小路猪熊にある一色邸を接収するため義貫の甥教親が押し寄せ、留守を預かっていた家臣らとの間で激戦となり、義貫の家臣二〇数名が討死した(「東寺執行日記」)。一色氏の分国のうち、若狭と尾張知多郡は武田信栄、三河は細川持常にそれぞれ与えられたが、丹後および義貫と同時に謀殺された土岐持頼の遺領伊勢が一色教親に認められて(尾張国海東郡はこれ以前に失っていた)、一色家の断絶は免れた。教親は持信の子である。義教の持信重用の行き着く先が、ここにきて明確な形となって現われたといえよう。ともあれこうして「万人恐怖」といわれた専制将軍義教によって、若狭の守護は突然一色氏から武田氏へと替えられたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ