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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    一 一色氏と幕府
      義範期の一色氏
 一色家では応永十三年、長年若狭守護代などを務めた重臣小笠原氏が失脚し(「守護職次第」)、同十六年当主満範が没すると、跡を継いだ一〇歳の遺児五郎(義範)と兄二郎(持範)の間で確執が生じるなど(同前)、混乱が続いた。この背景には家臣間の権力闘争があったとみられるが、二年後には一色兄弟の和睦が成り、この過程で急速に台頭したと思われる若狭守護代三方範忠を中心とする重臣たちが幼主義範を支える形で、一色氏の政治的地位は保たれていく。以下では、義範期の一色氏の中央政界における動向をみておこう。
 応永二十二年四月、わずか一六歳の義範は伊勢北畠満雅討伐軍の総大将に指名され、将軍義持から旗・鎧・太刀を授けられた(『満済准后日記』同年四月五日条)。義範は同三十年八月の鎌倉公方足利持氏討伐や(『看聞日記』同年八月十一日条)、同三十四年十一月の赤松満祐退治にさいしても将軍から旗を授かっており(『満済准后日記』同年十一月十四日条)、一色氏に対する将軍の信頼の高さがうかがえる。義範はこれより先、応永二十三年五月以前に侍所頭人となり、同二十五年十月には山城国守護に補任された(『看聞日記』同年十月二十四日条)。このとき山城国守護代となって淀に入部した三方範忠の勢は三〇〇余騎であったとされ(同 同年十一月一日条)、京都における一色軍のおよその規模を知ることができる。
 ところで、一色義範は大変な気骨の人であった。永享二年(一四三〇)右大将に任じられた将軍義教が天皇に謝意を表わす右大将拝賀式を行なうことになり、その供奉の一騎打(一騎ずつ一列になって進むこと)の順序について、義範は康暦元年の義満のときの祖父詮範と同様先陣を務めると主張した(『満済准后日記』同年七月十〜十二・十九・二十日条)。結局、この主張が認められなかった義範は、当日は病気と称して辻固(辻の警備)だけ務め、一騎打には加わらなかった(同 同年七月二十五日条)。山名・畠山らの尽力で処罰は免れたが、義範は討手が来れば一戦交えて切腹する覚悟まで示したという(同 同年八月十日条)。この事件ののち、翌三年二月十七日には義満の代から恒例となっている将軍の訪問を受けているうえ(同 同日条)、永享四年十月再度侍所頭人となり、同六年八月には山城国守護も兼任しているところをみると、一騎打一件は一色氏と将軍との関係にさほど影響を及ぼすことはなかったようである。



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