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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    一 一色氏と幕府
      将軍義満の若狭遊覧
 足利義満がしばしば地方の寺社参詣や名所遊覧に出かけたことはよく知られているが、記録で確認される二七回の旅行のうち最も多いのは、六回を数える丹後天橋立の九世戸(京都府宮津市智恩寺)参詣で、四回の若狭がこれに次ぎ、一色氏の守護管国が遊覧先に多く選ばれている。以下、若狭遊覧の様子を「税所次第」によってみてみよう。
写真142 高浜矢穴(明鏡洞、高浜町)

写真142 高浜矢穴(明鏡洞、高浜町)


写真143 遠敷郡栖雲寺(小浜市浅間)

写真143 遠敷郡栖雲寺(小浜市浅間)

 義満が最初に若狭を訪れたのは明徳四年五月十八日のことで、諸大名や愛妾の西御所(高橋殿)らをともなって丹後九世戸に参詣したあと若狭に入り、高浜の名勝矢穴を見物して小浜に来た。義満の宿所には玉花院があてられ、一行は中一日さまざまな遊びを楽しんだという。二回目の応永二年九月十九日の来訪も大名・西御所を引き連れてのもので、前回と全く同じ行程であった。三回目の応永十一年四月(フ函七八、『教王護国寺文書』八七一号)には九世戸参詣の記録がないが、他の例からみて丹後からの帰途である可能性もある。義満にとって最後の丹後・若狭旅行は死の一年前にあたる応永十四年五月で、九世戸から高浜を経て小浜にいたる恒例のコースであった。このとき一色満範は義満を栖雲寺に、義満の妻北山院(日野康子)を玉花院にそれぞれ宿泊させ、両寺の間に廊下を造営した。また小浜湾には二艘の飾り船を浮かべ、道路もさまざまに飾り立てたという。こうした満範の懸命の歓待ぶりのなかに、彼にとって義満一行を小浜に迎えることがこのうえもなく晴れがましく、得意絶頂の心持ちであったことがよく表われている。
 この将軍歓待によって一色氏は、若狭の人びとに守護としての権威を効果的に知らしめるとともに、将軍家との関係もより親密なものとし、幕府内における政治的地位を固めることができたと思われる。



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