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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    一 一色氏と幕府
      一色氏の政治的地位の確立
 一色氏は足利一門で、南北朝の動乱が始まった直後から二〇数年間も範氏・直氏父子が鎮西探題として困難な九州経営にあたったが、結局思うような成果を挙げられず延文年間(一三五六〜六一)ころその職を解かれた。しかし、貞治五年(一三六六)の斯波氏の失脚にともない、直氏の弟範光が若狭守護職に任じられ、康暦元年(一三七九)までに三河国守護職も得た。さらに範光の子詮範は、永徳元年(一三八一)四月までに侍所頭人に任じられ、いわゆる四職家に列する端緒を開いた。範光の跡を継いだ詮範は、明徳二年(一三九一)五月までに尾張国知多郡を拝領するなど着々と一色家発展の基礎を固め、同年十二月の明徳の乱では子の満範とともに参陣し、山名氏清の首を取って勇名を馳せた。この軍功によって、満範が山名氏の遺領の丹後国守護職を拝領するとともに、詮範は山名氏の領有していた若狭税所今富名を給され(「明徳記」)、ここに一色氏は初めて若狭全体の支配権を確保したのである。この前後に獲得した尾張国海東郡を合わせて、三か国(若狭・三河・丹後)・二か郡(尾張国知多郡・海東郡)の守護となり、応永十二年(一四〇五)には詮範が再度侍所頭人になるなど、有力守護大名の地位を確立した。
図29 一色氏略系図

図29 一色氏略系図




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