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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
     四 守護代甲斐氏の荘園支配権の強化
      細呂宜郷の代官職
写真141 坂井郡河口荘細呂宜郷

写真141 坂井郡河口荘細呂宜郷

 文安年間以後の荘園代官職をめぐる紛争の状況と、それに対する守護代甲斐将久の対応を河口荘細呂宜郷を例にみておきたい。宝徳二年より細呂宜郷下方政所の堀江左衛門三郎の未進分の年貢納入は甲斐氏がその履行を保証する体制をとっていた(『私要鈔』同年四月七日条)。ところが翌三年になっても堀江氏が年貢を無沙汰したため興福寺経覚がその状況打開を守護代将久に依頼したところ、将久は府中の小守護代に年貢徴収を行なわせ、年貢は下向の定使に渡し、代官職得分だけを堀江氏に手渡してはどうかと提案している(「細呂宜郷下方引付」)。享徳三年(一四五四)にも同内容の指示が小守護代に充てて発せられているから、いずれも現地に守護使が入部して実際に徴収したのであろう。甲斐氏は康正三年(一四五七)五月には下方代官として将軍近習の大館教氏を推薦したが、大乗院がこれを認めない態度をとると、七月には自ら下方の政所・公文に任じられており(『私要鈔』同年五月十三日・七月五日条)、結局下方代官職を獲得している。これには堀江も抵抗を示し、下方内の長慶寺の所領を押妨している(『雑事記』同年九月二十六日条)。他方、細呂宜郷上方政所は堀江大炊助に替わって大館教氏が任じられていたが、堀江は大館に対して年貢未進などの抵抗をしたため、大館は堀江民部のもつ公文職をも兼任することを求め、百姓と結んで堀江を追い出そうとしている(『雑事記』同年六月十二日条)。このように領国支配機構である小守護代をも動員して荘園支配権拡大を図ろうとする甲斐氏に対して国人の側の抵抗も強く、荘民をも巻き込みつつ抗争が激しくなっていた。まもなく勃発する長禄合戦は、こうした守護代甲斐氏の領国支配権強化の動向を背景とし、それに抵抗する勢力の抗争としても理解されなければならない。



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