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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
     四 守護代甲斐氏の荘園支配権の強化
      甲斐氏の荘園代官統制
 室町期の河口荘の職人(政所・公文など)はほぼ斯波氏重臣の甲斐・織田・朝倉・島田氏や国人の堀江氏で占められていた。応永二十一年(一四一四)河口荘十郷の職人たちは、名主が逃亡したと称して名主の地位と得分を没収する落名や、名田が災害などで耕作不能となったとして年貢を納入しない荒名を多発させ、八朔(八月一日の贈答風習)や歳暮の人夫を荘民から徴発するなどの非法を募らせていた。そこで六月に興福寺はこれを守護に訴え、守護の命令で八月に職人たちは上洛して、非法を止め検注を受けて増年貢を納入することに同意し、請文(誓約書)を提出した(「寺門事条々聞書」)。さらにそのうえで守護代甲斐将教は興福寺に充てて、職人たちが非法を停止し請文の旨を守って年貢を納入するよう監督し、職人に非法があれば命令を加えることを五か条にわたって誓約している。これは守護代甲斐氏が職人を統制して荘園年貢を保証することと引き換えに、荘園支配を全体として請け負うことを意味している。
 先にも述べたように、将軍義教の代が終わると在地社会の秩序に変化が現われてくる。河口荘兵庫郷公文職はもと斯波氏家臣の応嶋が知行していたが、将軍義教は永享十一年に守護使不入の地の御教書を発したため、興福寺の直務として応嶋は排除された。しかし義教死後になると応嶋は兵庫郷に討ち入って支配したため、文安二年(一四四五)興福寺は応嶋を代官に任じている(『私要鈔』長禄二年九月十八日条)。ついで同四年には河口荘大口郷の政所であった朝倉(阿波賀)但馬入道と郷民が段別五〇文の役銭賦課に端を発して相論となり、興福寺供僧は但馬入道を解任して斯波刑部少輔を任命したが、守護代甲斐将久の介入により宝徳元年(一四四九)に朝倉入道が政所に補任されている(『建内記』文安四年七月十八日条、『私要鈔』宝徳元年六月十七日条)。朝倉入道が補任されるについては斯波氏と但馬入道の子が色々と守護代や興福寺に嘆いたとされているから(資2 福智院家文書九号、『雑事記』康正三年四月二十九日条)、郷民の抵抗から始まったこの相論に対する甲斐氏の介入は斯波氏家臣の内部の対立を激しくすることになったのである。
 このように守護代甲斐氏は、本来は荘園制を外部から維持するために認められていた使節遵行の権限を足場として、荘園を実質的に支配する権力に成長しようとしており、それに対してさまざまな抵抗が生じていた。荘園領主の側もこうした守護代の動きに抵抗し自主性を保とうとした。文安六年正月二十二日、坪江郷政所補任にさいし大乗院経覚が新政所となる者は守護方と「契約あるべからず」との誓約をさせていること(『私要鈔』同日条)、宝徳二年に青蓮院門跡が敦賀郡莇野保代官を守護被官人と契約すべからずという「大法」にもとづいて改易したことなどは(資2 醍醐寺文書九〇号)、そうした荘園領主側の警戒心を示すものである。守護請の地であった大野郡井野部郷においても、後述する長禄合戦の戦乱が及んで代官を攻撃する軍勢が乱入し荘民に死傷者が出たため、名主たちは直務に復してほしいと要望しており(同九九号)、荘民は政治動向の影響を受けやすい守護請を歓迎していなかった。



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