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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
     四 守護代甲斐氏の荘園支配権の強化
      守護請
 守護が使節遵行を自己の権限としていたということは、荘園に対するさまざまな押妨は守護の手によって排除されるようになることを意味する。例えば室町初期に雨河という者が坂井郡河口荘新郷鴫池の年貢地に差押えの札を打ったとき、荘園領主興福寺からの訴えにもとづいてこれを撤去したのは守護であった(資2 福智院家文書七号)。この意味で守護は荘園の維持を任務としていた。しかし同時に守護はこの使節遵行の権限を背景とし、有利な立場で荘園領主と交渉して荘園の代官を自ら請け負うことがあった。これを守護請といい、守護請の荘園には家臣を又代官に任じたりした。例えば醍醐寺領大野郡牛原荘井野部郷は室町期に代官が欠如したさいに「守護請」とされ、新たな代官には梁田氏が任ぜられたと記されており(資2 醍醐寺文書一五三号)、また興福寺光明院領坂井郡長崎荘は守護代甲斐将久が請け負っていた(『雑事記』寛正二年九月晦日条)。さらに守護が家臣を荘園代官として口入(推挙)することもさかんに行なわれた。永享十二年(一四四〇)に守護代甲斐将久は壬生晨照に充てて、官務家領南条郡中津原村の預所職を従来どおり中津原是禎に充行ってほしいと要請している(『壬生家文書』二九七号)。守護代甲斐氏はこれらの守護請や口入を通じて、在地領主の掌握や主従関係の強化を図ることができたのである。



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