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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
    三 越前の支配機構
      大野郡代
 南北朝期において二宮氏が大野郡に支配権をもっていたことはすでに述べた(二章二節二参照)。応永二年と同二十五年に大野郡牛原荘を醍醐寺に打ち渡すことを命じた守護の命令は守護代甲斐氏に充てられており、守護代からさらに郡代に充てられた文書は伝えられていないから、このときには郡代は置かれていない可能性が強い(資2 醍醐寺文書七五・八三・一三四号)。
 しかし大野郡代(史料には郡司とみえる)の発給文書として、まず年未詳十二月二十一日の二宮信濃入道奉書が注目される(同一四九号)。これは使節二宮・乙部両氏に充てて醍醐寺領牛原荘に対する外宮役夫工米の催促停止を命じたものであるが、文言中で「当郡」と地域限定されている点に発給者二宮信濃入道の大野郡代たる地位が明示されている。そしてこの史料から、郡代が段銭(国役)徴収にあたったことが指摘できる。ついで応仁の乱にさいして、西軍の守護斯波義廉は越前の国中平均の沙汰として兵粮米を賦課するが(同一三八号)、大野郡では郡代二宮安兼の弟種数が催促にあたり、牛原荘からも年貢半分(半済)が兵粮米として徴収された(同一三九号)。すなわち、守護に認められた兵粮米徴収権(半済)を現地で執行したのは郡代であった。なお半済の配分についても守護奉行人は二宮種数に充てて細かく指示し、五〇貫文を種数本人に給与すると述べたうえで、残りは速やかに京都へ納めるよう命じている(同一四〇号)。
 ところで、二宮氏はもともと斯波氏庶流の義種系に属した被官人で、南北朝末期から室町初期において義種とその嫡子満種が信濃・加賀の守護に就任すると二宮信濃守(信濃入道)がその守護代となっている。満種は応永二十一年に将軍の忌避を受けて高野山への遁世を余儀なくされ、二宮氏も加賀の守護代を解任されたと思われる。その後、満種の子持種と二宮氏は大野郡に本拠を置くようになり、持種は大野修理大夫とも称されている(「応仁記」)。ところが寛正五年十月十七日以来、持種は二宮信濃入道が大野郡を引き渡さないとして幕府に訴えており、両者の対立がみられる(『蔭凉軒日録』同日条)。この争いは延々と二年も続いたが、文正元年(一四六六)八月に大野郡は斯波義廉に替わって家督に復帰した義敏に与えられ、義敏は父持種らとともに将軍義政に拝謁したさい、大野郡拝領についても礼辞を述べている(同 同年八月十八日条)。このように大野郡は持種系斯波家と古くからその被官であった二宮氏にとって私領的な地域であったらしく、持種は名目的ながら大野郡守護であった可能性がある。したがって、甲斐氏が重視した敦賀郡の郡代とこの大野郡の郡代とは設置された事情がおおいに異なるのである。なお大野市鍬掛の洪泉寺(曹洞宗、洞雲寺末寺)は持種(文明七年七月十六日死去、六三歳、法名道顕)の菩提寺である。



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