目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
    三 越前の支配機構
      敦賀郡代
 敦賀郡を管轄領域としたのが敦賀郡代で、その在職者は表26のごとくである。ここには守護代甲斐氏の一族が配置されており、甲斐氏が敦賀郡支配をすこぶる重視していた点がうかがえる。未詳の高岳もおそらく甲斐氏一族であろう。次の教衡は斯波義郷の家督継承(永享五年、一四三三)にともなって郷衡と改名しているので、初名の教は斯波義教(初名義重)から受領した偏諱であろうか。永享十二年に郷衡は盛庵(甲斐将教)・妙永の菩提のために田地四段を西福寺に寄進しているので(同一〇六号)、この両人が父母と考えられ、守護代将久は彼の兄である可能性が高い。後継の郡代久衡は彼の嫡子であろう。
写真140 敦賀郡西福寺

写真140 敦賀郡西福寺

 敦賀郡代の職務の第一は幕府・守護の命令を在地に伝達して秩序維持を図ることで、例えば文安二年七月に是時名をめぐる西福寺と楽音寺の相論について、守護代から郡代に充てて西福寺勝訴の旨が伝達され、西福寺の主張どおりに沙汰するよう命ぜられているが(同一一五号)、郡代はこの裁決をただちに下知して西福寺の知行を確保したと語られ(同一一六号)、裁決にもとづき郡代が強制執行を行なっていることが知られる。
 第二の職務には相論の裁決がある。右の是時名をめぐる相論は、実はすでに文安元年四月に郡代久衡が楽音寺の主張を退けて西福寺勝訴と裁決を下していた(同一一〇号)。つまり郡代は第一審として審判を行なっていたのである。しかし敗訴した楽音寺がこれを不服として守護のもとへ控訴したために改めて訴陳が行なわれ、その結果、前述のごとく守護代遵行状でも西福寺の主張が正当と認められたのである。なおこの裁決は本来ならば守護遵行状で下達されるべきであるが、守護義健に加判能力がなかったので守護代遵行状しか発せられていない。
 第三の職務には所領支配の安堵がある。正長二年(一四二九)八月に莇野郷の土地の得分を僧祖運・徳貞が中分したさいに、郡代教衡はこれを承認して遵行状を発している(同八六号)。この土地はその後、永享五年に僧祖運の死去にともなって西福寺に寄進されたので、郡代教衡は改めて西福寺に充てて知行安堵を行なっている(同一〇二号)。この所領安堵は府中の小守護代にはみられない権限であって、それだけ敦賀郡代の支配が自立性を認められていたことを示す。



目次へ  前ページへ  次ページへ