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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
    三 越前の支配機構
      守護の国人掌握
 将軍より各国の統治をゆだねられた守護の権限は、鎌倉前期からの大犯三か条のほかに、後期には刈田狼藉の取締権や判決を強制執行する使節遵行権が加えられた。南北朝の動乱期になると、兵粮料として年貢半分(半済)を収得する権限と、敵方から没収した闕所地を被官に預け置く権限を獲得し、さらには段銭徴収権も獲得して領域支配の権限は著しく強化されるのである。
写真138 藤原信昌・同将広置文(劔神社文書)

写真138 藤原信昌・同将広置文(劔神社文書)

 こうした守護権限の拡大を背景とし、また貞治五年(一三六六)に斯波高経が京都で将軍に背き越前に没落したとき国人たちの支持が得られなかったことの反省から、斯波氏はまず国人の掌握に努める必要があった。明徳四年(一三九三)藤原信昌は、嫡子将広が「奉公隙なし」のため自分が丹生郡織田剣社を修復したと述べているが(資5 劒神社文書一号)、この将広の実名は斯波義将の一字を受けたものと考えられるから、丹生郡織田荘近辺の国人藤原氏と守護義将との結びつきを示している。応永十九年(一四一二)には、内膳司領坂井郡三国湊に対して越前国住人堀江・桑山らが興福寺代官あるいは守護被官人と称して押妨したことがみえており、国人の被官化の進展をうかがうことができる(資2 宮内庁書陵部桂宮家文書三号)。応永二十年に斯波氏若党としてみえる「ウソウ」とは坂井郡坪江上郷の土豪武曾氏のことではないかと思われる(『満済准后日記』同年二月十四日条)。彼ら国人が守護との結びつきを強めていく事情を推定させるものとして、坂井郡河口荘の堀江道賢(教実)の例がある。道賢は嘉慶二年(一三八八)以来断続的に興福寺代官との間で本庄郷満丸名や新郷鴫池について争っていたが、満丸名に関しては永徳三年(一三八三)の斯波義将および守護代甲斐教光の証文を証拠文書として提出しており、荘園領主に対抗するため守護の保証を得ていたことがわかる(資2 福智院家文書七号)。なお、寺社については義将が明徳二年に坂井郡豊原寺に同郡内長畝郷の料所半済を寄進して「氏寺」としたと伝えられ(資4 豊原春雄家文書一号)、応永二十九年に義淳は河口荘細呂宜郷下方の長慶寺・地蔵院を「祈所」とし、長慶寺の名田・山林などを安堵している(『雑事記』寛正二年四月十三日条)。
 斯波氏がこうして掌握した国人などをどのように軍事力として編成したのかについては、史料の制約から全く知ることができない。また、所領を安堵もしくは給与する場合にその知行分を独自のやり方で掌握しようとしていたかどうかも不明であるが、寺社について知られる例からすると荘官としての所職あるいは名主職などの荘園所職をそのまま安堵もしくは給与したものと推定される(資8 善妙寺文書三号、西福寺文書四九号)。



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