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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
     二 守護代甲斐氏の台頭
      斯波家内部の抗争
 嘉吉元年(一四四一)に将軍義教が赤松満祐に殺害される嘉吉の乱が勃発して、幕府は著しく権威を失墜させた。翌二年に七代将軍義勝が就任するが、彼はまもなく夭逝し(嘉吉三年没、一〇歳)、替わって義政が八代将軍に迎えられる。ところで幕府は嘉吉の乱直後に旧領回復令を発していた。これを受けて斯波義健は嘉吉元年閏九月二十日に義教の時代において停止されていた分国中の半済の回復を将軍に申請し認められている(『建内記』同日条)。しかしこれは単なる旧領回復にとどまらず、このことがきっかけとなって義教のいわゆる恐怖政治のもとで押さえられていたさまざまな矛盾対立が噴き出してくるのである。斯波家においては尾張守護代の地位をめぐる抗争、および斯波持種と甲斐将久の対立という重大な事件がおこってくる。
 尾張守護代織田郷広は、この旧領回復令にもとづいて所領回復を企てた。しかし幼主義健を扶持した一族持種、後見の甲斐将久、その他の織田一族らは、いずれも郷広の行為を押領だと指弾して絶交を通告したため、郷広は逐電を余儀なくされ、替わって子敏広が守護代に補任されていったん落着する(『建内記』嘉吉元年十二月二十一日条)。ところがそれから間もなく足利義政が将軍に就任すると、義政は没落した郷広を尾張守護代に再任しようと図り、将久らと鋭く対立したのである。結局この問題は、義政の母日野重子からの圧力が効を奏して、宝徳三年(一四五一)十月に義政が口入(介入)を撤回することで決着し(『康富記』同年十月十三日条)、郷広はそののち越前で死去したとされるが(「文正記」)、将軍の介入がむしろ斯波家被官の亀裂を拡大する方向に作用していることが注目される。
写真137 京都室町将軍邸(町田家本「洛中洛外図屏風」)

写真137 京都室町将軍邸(町田家本「洛中洛外図屏風」)

 また斯波氏庶家の持種は祖父義種・父満種が任じられていた加賀国守護職の回復をめざして幕府に訴えていたが、なかなか実現しなかったため、幕府の方針に従わず武力で加賀に侵入しようとして家臣たちにとどめられていた(『建内記』嘉吉三年正月三十日条)。おりしも幕府内部の不統一から加賀国守護職をめぐり富樫一族の内紛が生じており、富樫氏の一族である河口荘細呂宜郷下方政所の堀江久用が加賀に出陣し戦死している。この堀江の行動は幕府の方針に背くものとしてその所職は没収されており、加賀の内紛の影響が越前にも及んできたのである(『私要鈔』文安二年十二月四日条)。文安三年(一四四六)九月には持種が加賀に出兵し、多くが討たれている(『師郷記』同年九月十三日条)。このような状況のなかで翌四年五月二十八日に斯波持種と甲斐将久の対立がおこり、持種に属した二宮・島田氏らの斯波家臣数十人が、将久の進退作法は狼藉尾篭だと非難して連署の誓約を作成している(『康富記』同日条、『建内記』同日条)。持種派は四月には将久の私宅に放火を行ない、五月には軍勢をもって攻め寄せようとしたという。幸いに吉良兵衛佐入道(その娘と斯波義健の結納が成立していた)が持種方被官を説得することで事態は一応の収拾にこぎつけたが、斯波家庶流持種と彼らを支持する斯波家臣たちは、甲斐将久に強い反発をもつにいたっているのである。
 この対立の理由は推測するほかはないが、持種が回復を狙った加賀国守護職問題に対する甲斐将久の対応が反感を招いたものと思われる。さらに古くさかのぼると、明徳三年(一三九二)にみえる斯波氏重臣のうち、二宮・斎藤(堀江)・安居氏が義種より与えられたと推定される種の一字を実名としていることも注目され(表19)、義種が信濃・加賀などの守護支配を行なうなかでこれらの重臣を用いたことから彼らとの結びつきを強めたのであろう。室町期になり義種・満種の守護職は失われるが、南北朝期以来の重臣のなかには甲斐氏などを重用する主家に反発して、満種・持種に心を寄せていたものが少なくなかったと判断される。享徳元年九月に義健が死去し、新家督に持種の嫡子義敏が迎えられると、ついに義敏を支持する古くからの重臣と将久の対立は決定的となり、長禄合戦が引き起こされるのである(本章六節参照)。



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