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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
     二 守護代甲斐氏の台頭
      甲斐将久の登場
 甲斐将教は応永二十七年に没し、その跡は甲斐将久(法名常治)が継承した。長禄三年(一四五九)八月に没する将久の時期は、主家斯波氏では義淳・義郷・義健・義敏の四代にあたるが、これらの人物はいずれも問題点があった。まず義淳は精神的に不安定で不測の行動が目立ち、生活の細部にいたる援助が必要であった。次の義郷は相国寺僧から還俗した人物であるから、武将としての行動や心構えには疎かった。ついで義健はわずか二歳で当主になったので、将久の後見は不可欠である。そして義敏は、一族持種の子から主家を継承することになったが、まもなく甲斐氏らと不和になり長禄合戦を引き起こすにいたった人物である(本章六節参照)。このように室町期の斯波家には、義敏を除けば単に在任するだけの当主が続いたので、執事甲斐将久を中心とする重臣たちの主家存続の努力が続けられた。そもそも甲斐氏は右に挙げた応永二年の所領のあり方からみて
、越前をはじめとする管国内において強力な権力基盤をもっているとはいいがたく、その権力は主家斯波氏が幕府内でもちえた地位を前提とし、それを執事として遂行することにあったから、主家存続は最優先課題であった。ただしこの間、将久がすべてを取り仕きったわけではなく、斯波氏の所領が少ないため困窮している状態を幕府に訴えて、所領加増のために奔走したのは重臣の二宮越中守であったし(『満済准后日記』永享二年九月十日・十月八日条)、永享二年(一四三〇)三月に上洛した鎌倉公方の使者に将軍への忠誠を誓う起請文を出させる問題が難航したとき、管領義淳を補佐して諸大名の間での根回しを担当したのは将久よりもむしろ二宮越中守と飯尾美作守であった(同 同年四月十日条など)。
 若年の斯波家当主が続いた時期、斯波氏に命ぜられた軍事行動の采配は一応はその一族がとったが、実質的には甲斐将久が指揮したものと思われる。例えば永享九年に将軍義教から命ぜられた大和国越智維通の討伐には、斯波義健に代わって一族持有が大将として出陣したが、その主力軍は将久が担っていたと考えられ、翌十年五月の合戦では甲斐氏一族に多くの死傷者が出たとされている(『師郷記』同年五月一日条)。大和の陣が終わると将久は休む間もなく、今度は足利持氏討伐(永享の乱)のため関東への出陣を命じられている。斯波軍の大将には一族持種がなるが、将久は遠江の守護代であることから斯波氏の東国出陣軍の中心となっていたことであろう。



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