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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
     二 守護代甲斐氏の台頭
      甲斐氏の歴代
 斯波家の執事としてこれを補佐し、越前・遠江の守護代も兼務したのが甲斐氏である。甲斐氏の活動としては、応安五年(一三七二)に在京の義将の意向を守護代に伝える役割をもつ甲斐教光が知られる(「八坂神社記録」同年七月二十六日条)。応永二年(一三九五)五月教光が死去したとき、彼は管領斯波義将の家人で執事であったと記されている(「常楽記」)。しかし甲斐氏を単なる家人とみることは疑問で、教光の子甲斐将教(法名祐徳)は応永二年八月に足利義満から足羽郡大土呂・稲津保・河北、越中東条南北、伊勢岩田御厨の所領を「教光跡として、佐野甲斐八郎将教領掌すべし」と安堵されている(資2 醍醐寺文書七四号)。この史料から考えると、甲斐氏は足利家直属の御家人であったことが知られ、おそらくは将軍の要請にもとづいて斯波家の家人となったのであろう。室町期において将軍が毎年六月十九日前後に甲斐家渡御を行なうのは(『満済准后日記』応永二十一年六月十九日条など)、こうした甲斐氏の高い地位を象徴する行事であった。また斯波義郷・持有の母はこの教光の娘で(「武衛系図」)、この点からも甲斐氏の家格が極めて高かったことが知られる。なお甲斐氏の本姓は佐野であるから、下野国出身の可能性がある。
 南北朝末期に斯波氏が守護職を獲得した越中・信濃・加賀においては、義将の弟義種が守護あるいは守護代となり、国内支配には二宮・由宇・細川・島田・長田という南北朝期以来斯波氏家臣であった武将が用いられた。しかし康暦の政変で斯波氏が回復した根本管国である越前と、室町期に獲得した新管国である尾張・遠江の国内支配については、古くからの家臣が登用されず、執事甲斐氏を重んじる方針に転換したのである。応永七年に斯波氏が尾張国守護に任ぜられたさいに、まず甲斐将教が同年四月、甲斐・大谷両氏に充てて先述の松枝荘破田郷の違乱排除を命じた遵行状を発している(「大徳寺文書」『新編一宮市史』資料編六)。斯波氏は尾張守護代に経験豊かな将教をまず任じ、支配の安定した同十年八月以後はこれを織田常松に替えたのである(同前)。遠江については応永十二年の拝領当初から甲斐氏が守護代を勤め、十一月には将教が東寺領村櫛荘(静岡県浜松市)の沙汰付けを小守護代甲斐・大谷両氏に充てて命じている(ミ函五九)。そしてこれ以後、甲斐氏は斯波家執事と越前・遠江守護代を兼務することとなった。



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