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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
    三 越前の支配機構
      守護役と守護使不入
 室町期になると守護は守護独自の段銭徴収、人夫・陣夫の徴発、そのほか守護の主催する国内寺社の祭礼費やさまざまな名目を付けての臨時徴収を行ない、これらは総称して守護役とよばれた。若狭の一色・武田両守護の課した守護役についてはかなり詳細に知ることができるが(本章二節参照)、斯波氏については明らかでない。斯波氏が越前守護職を回復する以前の畠山氏守護下の永和三年(一三七七)に今立郡稲吉保では守護役として米一・七五五石、銭三九二三文が支出されている(『石清水神社文書』二四八号)。こうした守護役賦課が斯波氏のもとでも継承されたことは、応永二十四年敦賀郡木崎郷において守護役への対応が問題とされていることから明らかであるが(資8 西福寺文書六〇号)、室町期の荘園の収支決算書である算用状には守護役の支出分が記されておらず、若狭ほど頻繁に課せられなかったのかもしれない。
 ところで、守護がさまざまな権限をもって領国統治を強化した一方で、国内にはこの守護支配を排除する有力国人や大寺社の所領も存在していた。まず将軍直属の御家人は奉公衆・御供衆などの組織に編成され、その所領には守護不入権が付与されて守護勢力の介入を拒んでいた。そのため賦課された段銭は御家人から直接幕府に納入されることとなり(これを京済という)、例えば荒河宮内大輔(越前に所領五か所)・伊勢左京亮(三職郷、所在地未詳)・長井因幡守(南条郡徙都部郷)などが知られ、そのほかに千秋・山内氏らも奉公衆であった(本章三節二参照)。また大寺社の所領にも守護不入権が与えられて守護の介入を排除できたので、妙法院(丹生郡織田荘・大虫社)・興福寺東北院(足羽郡木田荘)・賀茂御祖社(丹生郡志津荘)・建仁寺(所々)などは直接に幕府へ段銭を納入している(「康正二年造内裏段銭并国役引付」)。



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