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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
    一 室町幕府管領家斯波氏
      斯波義淳と将軍義教
 義淳は管領職を解任されたのち、政務から疎外される立場となっていた。例えば、幕府年頭行事の松拍子に出演する割当は「当方計をハ除候」と義淳だけが除外されていたし(内閣文庫「当流式」・「大雙紙」)、また応永三十四年六月に大徳寺如意庵領尾張国松枝荘破田郷への守護使入部を禁じた幕府命令が義淳に充てて発せられたが、義淳から守護代へその命令を下す過程は省略され、守護代織田常松が直接その幕府命令を受けて小守護代織田常竹へ下達している(「大徳寺文書」『新編一宮市史』資料編六)。このように政務のうえで、幕府や斯波家の守護代は守護義淳を無視するようになっていた。一方、義淳は普段から「数奇にひかれ」、「犬・鷹殺生」を好み、京都の河原で勧進猿楽が行なわれたさいには自分の立場を忘れて将軍の棧敷に紛れ込むといったような行動をとっている(「当流式」、「大雙紙」)。正長元年(一四二八)には「計会」のあまり京都から没落しようとさえした(『満済准后日記』同年八月六日条)。斯波氏のこの「計会」とは、所領が少なくて経済的に困窮していたことを意味し、正長元年には将軍より飛騨国大野郡小八賀一〇〇〇貫文の地と尾張国丹羽郡松竹の地が与えられている(同 同年十月二十八日条)。しかしその後も義淳の困窮は止まず、永享二年(一四三〇)には以前より申請していた三〇余か所を充行われるよう将軍に願っているが、これは実現しなかった(同 同年十月八・十日条)。
写真135 足利義教像

写真135 足利義教像


写真136 斯波義淳西福寺寺領安堵状(西福寺文書、部分)

写真136 斯波義淳西福寺寺領安堵状(西福寺文書、部分)

 こうしたなかで永享元年八月、義淳は将軍となって間もない足利義教によって管領(第二次)に任じられた。義教は将軍職に就いて以降、奉行人組織を整備して親裁体制を確立し、また直轄軍たる奉公衆組織を強化して将軍への権力集中を進めたことが知られており、彼が幕政や領国支配から孤立していた義淳を管領職に就けたのも、管領制の弱体化を図ろうとしたためと考えられる。守護代甲斐将久が自らの主人である義淳を評して、管領職の「器に非ず」と述べているように(同 同年八月二十四日条)、この人事は将軍義教の権力を強化させるものとなった。
 そしてその影響は、斯波氏の領国である越前にも及ぶことになった。永享二年五月、守護義淳は敦賀郡西福寺の寺領目録に外題を記入して安堵しており(資8 西福寺文書八九号)、この目録は松田秀藤を通じて将軍義教に提出された(同九〇号)。応永二十九年の義淳による西福寺領の安堵のさいには、こうした将軍への目録提出はされておらず、永享二年の例は異例のことといえる(同七三・七四号)。永享二年十二月、義教は西福寺を将軍家祈願寺に指定し、改めて西福寺の寺領について安堵の御判御教書を発した(同九三・九四号)。そして守護代甲斐将久は、この御判御教書が発せられたのちの翌三年二月に西福寺へ遵行状を出している(同九六号)。この遵行状のなかで甲斐氏は、守護義淳の意を受けて遵行したと称してはいるものの、応永二十九年には義淳による安堵のあった翌日に遵行していることと比較すると、実際には御判御教書の発給を待って遵行したのであった。このように、斯波氏の領国の一つである越前に対して、義教は守護のもつ安堵権の上位に将軍の権威を位置づけることで領国支配に介入しようとしており、また守護代甲斐氏はそうした意向をもつ将軍義教と直接結ぶ形で動き、越前支配の実権を固めようとしていたのである。
 永享四年十月に義淳は管領職を辞任し(『満済准后日記』同年十月十日条)、翌五年十二月に三七歳で死去した。その後継者の選定をめぐって、将軍義教は再び介入の手を伸ばしてくることになる。



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