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第三章 守護支配の展開
   第一節 斯波氏の領国支配
    一 室町幕府管領家斯波氏
      管領としての斯波氏
 明徳三年(一三九二)に南北両朝の合体を実現した三代将軍足利義満は、応永元年(一三九四)十二月にその地位を子義持に譲るが、政界を引退したわけではなく実権を握り続けた。応永六年十二月に大内義弘を和泉国堺で滅ぼし、さらに同八年には「日本国王」の立場で僧祖阿を明に派遣して国交の樹立を実現する。そして晩年の政治課題として義満は、子義嗣(義持の弟)を後小松天皇の猶子とし義嗣の天皇即位を意図し、自身は太上天皇の地位を得ようとしていたとされる。しかしその実現を目前にした同十五年五月、急病で五一歳の生涯を閉じ、朝廷からの太上法皇追贈も返上となってしまうのである。
図28 斯波氏系図

図28 斯波氏系図

 この義満後半の時期に、三管領の筆頭斯波家にあって幕府宿老として政務に関与したのが斯波義将であった。彼は明徳四年六月に二度目(貞治年間の執事就任を除く)の管領に就任した。そして応永五年閏四月にその職を辞し、家督も子の義重に譲っている。しかし義重は、例えば明徳二年に叔父義種に替わって加賀国守護職に就くものの、二年で義種が復任しているようにその政治力には不安が残り、父義将から受け継いだ分国の一つである信濃国についても、応永六年に小笠原長秀に守護職を奪われる事態となった。ようやく義将の巻返しで、応永七年信濃国の代わりに尾張国守護職を獲得し、義重は同十二年七月に畠山基国に替わって管領に就任して遠江国守護にも任ぜられ、越前・加賀と合わせて四か国の守護職を有することになる。この間、義将は義重の背後で幕府の実権を握っていた。応永十五年に義満への太上法皇追贈をとどめたのは義将の判断であり、またそのさい弟の義嗣が家督に就くのではないかとの思惑があったが、それを退けて義持の将軍職継承を確定させたのも義将であった。翌十六年六月、義将は義重に替わって三度目の管領に還補され、朝鮮に充てて義満死去と義持嗣立を告げて大蔵経の頒布を求める。この外交処理が済むとただちに義将は、八月に幼少の嫡孫義淳(義重の嫡子、一三歳)に管領の地位を譲った。そして義淳に代わって父義重が代判する体制がとられており、これは斯波一族の勢力拡大と義淳の政界馴致を目的にしたものと思われる。しかし翌十七年五月に義将が死去すると、義淳は管領職を解任されてしまった。



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