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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    七 越前の荘園
      禅宗寺院領など
 禅宗寺院の寺領としては、鎌倉期から円覚寺領の今立郡山本荘がみえる。建武新政下に後醍醐天皇は円覚寺に山本荘を安堵しているが、一方で紀伊国の武士とみられる湯浅宗顕に同荘が恩賞として充行われている。円覚寺はこれを守護新田義貞に訴え、ついで雑訴決断所に訴えて建武元年三月には雑訴決断所牒が出されている(資2 円覚寺文書四・六・七号)。同四年七月に足利直義は円覚寺領を安堵しており、その一つに山本荘内泉・船津両郷とみえる(同八号)。しかしそののち守護斯波高経は当荘に半済を実施した。高経が失脚したのち、足利義詮は円覚寺の訴えにより下地の交付を守護畠山義深に命じた(同一三号)。当時の円覚寺の山本荘領有権はもと造営料所で、かつ地頭職の系譜を引くものと思われる。至徳元年(一三八四)に初代僧録春屋妙葩は、銭三万疋で有栖川清浄寿院領を管領していた青蓮院門跡から山本荘の権益と文書を買得し、円覚寺の一円寺領化が実現した(同一六〜一八号、資2 神奈川県立博物館所蔵文書一号)。
 京都五山では建仁寺が注目される。室町期の康正二年(一四五六)の内裏造営のための段銭納入にともない所領と領主を記した「康正二年造内裏段銭并国役引付」によれば、建仁寺の塔頭の新宝庵・禅居庵・知足院などが越前に所領をもっており、知足院は坂井郡布施田名を知行している。文明十年五月に知足院は足利義政から寺領返付の 御判御教書を得ているが、これには坂井郡山岸・三本松(所在地未詳)・足羽郡得光保内松丸名がみえる(「両足院文書」)。そのほか建仁寺十如院は、細呂宜郷下方内の長慶寺を末寺として支配していた(『私要鈔』康正三年九月二十六日条)。こうした末寺支配を通じても、京都の五山禅院は影響力を保持していた。
 五山以外の禅宗寺院で注目されるのは大徳寺の塔頭である。応永九年に斯波満種は坂井郡春近郷内末平名を霊供田として大徳寺如意庵に永代寄付している(『大徳寺文書』)。春近郷は、南北朝期に地頭職の半分が若狭国の御家人の本郷家泰に勲功の賞として充行われたり(資2 本郷文書二四号)、千秋駿河左近将監が知行したりしており(資2 醍醐寺文書六一号)、室町幕府の奉公衆らに与えられた所領だった。戦国期も朝倉経景やその孫の景隆が在地を知行し、如意庵へは本役として年貢一〇貫文と綿二把が納められることになっていた。
 次に大徳寺真珠庵に対しては、戦国期に坂井郡三宅の本光庵領一五貫文が塩噌料として朝倉経景の子景職の母から送られ、ついで朝倉景隆はそれを足羽郡太田保二上村国衙分に替えた。これは朝倉経景の遺言によるものといわれ、経景の子で真珠庵四世の祖心紹越が取次を勤めて塩噌銭一〇貫文が納入されている(資2 真珠庵文書五〇・五二・九〇号)。このように大徳寺の塔頭の一部は、古くから斯波氏や朝倉氏の崇敬を集めて、その豊富な人的つながりにより年貢の一部を確保した。
 最後に、中世後期の荘園の領有状況の推移を象徴的に物語る事例として吉田郡志比荘をとりあげる。志比荘はもと建春門院の御願寺の最勝光院領だったが、鎌倉末期に本家職が東寺に寄進された。しかしそののち長年にわたる地頭波多野氏との相論のなかで本家役はいっこうに確保されず、南北朝期末の東寺の領有はほとんど有名無実だったといってよい。志比荘の領家は、鎌倉末期の永仁二年(一二九四)ころには二条良実の子尋厳であった。 そしてそののち、二条家の外孫で順徳天皇の曾孫にあたる忠房親王に伝えられた。忠房は南北朝期に入る貞和三年に没するが、これ以前に志比荘などの荘園と嵯峨中西の敷地などをいったん娘に譲り、彼女が早世したためにその母親の中西御息所が忠房の後室として所領を管領していた。そして中西御息所は所領の安定化を図るために、これらを同地にあった白河天皇草創と伝えられる善入寺に寄進して寺領化した(資2 天龍寺文書三号)。ところが忠房の子息の周護侍者はその母すなわち忠房の後室を殺害するという事件を引き起こし、その跡は闕所とされ、延文年間(一三五六〜六一)に幕府の御厩料所にされた。そのころ足利義詮は善入寺をいったん廃絶して寺領も没収し、改めて自分の信頼する等持寺の黙庵周諭に寄付した(さ函五七、「天龍紀年考略」)。黙庵は義詮の帰依を受けて善入寺へ義詮の遺骨を分けその墓所とした。そののち善入寺は宝篋院と改称されて、現在のように臨済宗寺院となるのである。室町期の長禄二年の善入寺領志比荘の領家年貢は地頭波多野入道の契約により二〇〇貫文とされていたが、この年は水損のために半分の一〇〇貫文にすることを幕府は特別に認めている(『蔭凉軒日録』同年十一月二日条)。この半額の一〇〇貫文という年貢額がこれまでにみた室町期の荘園年貢として多いことは明らかであろう。
 このように中世後期の荘園は、それまでの本家・領家といった領有秩序が乱れ、在京領主と守護・地頭らの社会的な関係によって知行の実質が規定されていった。足利将軍家と強い関係をもった禅宗諸派については当然ながら厚く保護され、彼らもその経済力を背景として所職の買得などを進めていった。



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