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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    七 越前の荘園
      寺社領
 次に南都北嶺など古代から続いた大寺社の荘園についてみてみよう。まず大和の東大寺は奈良期に越前と強い関係をもち、多くの初期荘園が坂井郡や足羽郡に成立した。しかしそれらは平安中期までには実体を失ってしまう(通1 五章・六章三節参照)。これに対して興福寺と春日社は、そののち坂井郡河口荘・坪江郷を中心に、中世越前の荘園領主として大きな意義をもってくるのである(本節四参照)。この両荘のほかに越前の興福寺領には足羽郡木田荘があり、室町期まで興福寺東北院が知行していたが、応仁の乱ののち不知行となり、その年貢で行なわれるべき興福寺の本願藤原不比等の忌日の行事も退転していった(『雑事記』文明十三年八月三日条)。春日社西塔造営料所の曾万布荘については前述したが、南北朝期には春日社八講料所として新たに今立郡大屋荘・足羽郡安原荘が みえる(「御挙状等執事引付」)。この両荘はいずれも公家領であるが、おそらく領家職の得分の一部が八講料所に充てられていたものであろう。また大野郡の小山荘と泉荘は領家職が伝領されて南北朝期までに春日社領となっており、嘉慶二年(一三八八)には半済打渡しが命じられている(資2 京大 一乗院文書一三号)。そののち小山荘では永享十二年に春日社による直務が行なわれ、西小山・井嶋・舌・黒谷・深江・飯雨・院内・佐開・木本・縁新宮地などの荘内の郷村の田数と年貢、そして上穴間・下穴間・上佐々俣・下秋宇・折立・河原・石徹白方などの年貢等が詳しく注進された(資2 天理図書館保井家古文書五号)。これらの地を合わせると大野郡の南半分のほとんどを占めるくらいに広く、山間地域のすみずみに荘園支配が及んだ。なお当地には、領家方・地頭方など下地中分に関係するらしいことをうかがわせる地名が伝わっている。そのうちに永享十二年の領家方の郷村名と一致する木本郷領家方がみえている。
 次に北嶺とよばれた延暦寺と坂本にある日吉社は、中世の日本で最も大きな勢力をもった中央寺社で、合わせて山門・日吉社といわれる。それらの位置する近江の隣国である越前には、多数の延暦寺の門跡領が成立している。まず青蓮院門跡領としては、吉田郡藤島荘や大野郡羽生荘・遅羽荘が知られる。藤島荘の領家職は門跡から高僧や住僧に恩給され、のちには侍法師という中童子出身の僧に与えられていることもあった(「勧学講条々」)。室町期には門跡領として応永二十八年に足利義持から安堵されているが(『華頂要略』門主伝)、それ以後については詳らかでない。藤島荘は上・下郷からなり、建武元年九月に斯波高経は守護として上・下郷を山門雑掌に遵行している。上郷下司には戦国期に中村氏の名がみえる(資7 白山神社文書一号)。下郷については、貞和三年九月に青蓮院門跡尊円法親王が下郷公文跡重藤名を彼に近侍した瑚子丸に充行っている(資2 南部文書一号)。この藤重のほか現在まで開発・久末(幾久)・福万・高木などの地名も残っているが、これらも直接中世の当荘に由来するものである。敦賀郡では当郡に大きな 勢力をもっていた気比社の社務職が青蓮院門跡に伝領された(一章四節二参照)。こうした関係もあって、室町期にいたるまで気比荘・野坂荘などが門跡領としてみえる(『華頂要略』門主伝)。
 次に妙法院門跡領は南北朝期の門跡亮性法親王にいたるまでに集積されており、そこには常住金剛院領の丹生郡八田別所、円音寺領の丹生郡織田荘・大虫社、そして日厳院領の吉田郡河南荘などがみえ、これらはほぼ室町期も存続した(資2 広島大 猪熊文書八号・妙法院文書七〜九号、資5 劒神社文書七号)。また三千院門跡領としては吉田郡吉野保と今立郡帆山寺があったが、吉野保は戦国期に朝倉氏により押領されて不知行となっていた(資2 三千院文書四号)。
 次に延暦寺の千僧供領としては、南北朝期に今立郡別司保がみえる。なお武生市の村国山の北東麓を千僧供といい、永禄十一年(一五六八)の鐘銘に「千僧供之荘内八王子殿山王大権現」とみえる(『武生市史』資料編人物・系譜・金石文)。これも千僧供領と何らかの関係をもった地名ではなかろうかと思われる。

[準備中]

写真134 足利尊氏寄進状(日吉大社所蔵文書)

 日吉社領としては、鎌倉末期の注文に南条郡加恵留保・新道と丹生郡太田野保がみえる。南北朝の動乱のなかで足利尊氏は、文和四年(一三五五)正月に日吉社に丹生郡玉河浦と南条郡奴可(糠)浦の地頭職を寄進している(「日吉大社所蔵文書」)。
 南都北嶺のほかに越前に古くから所領があった大きな神社として、伊勢神宮と賀茂社を挙げることができる。 南北朝期の注文によれば、伊勢内宮領には足羽郡足羽御厨、外宮領には丹生郡山本御厨・今立郡泉北御厨がそれぞれ存続しており、上分とよばれる年貢の額はそれぞれ絹七疋・八丈絹六疋・米三〇石で、そのほか口入神主の得分、雑用米などが課されていた。そのほか、丹生郡安居御厨の名も伊勢神宮領としてみえる(「神鳳鈔」)。足羽御厨の口入神主の得分は室町期にいたっても荒木田神主家に知行されており、実体があったようである(資2 神宮文庫 輯古帖一号)。
 次に賀茂御祖社(下鴨社)領の丹生郡志津荘も比較的後代まで続いて戦国期にもみえ、本年貢として神服の綿が収納されていた(資2 東山御文庫記録二三号)。文明四年に朝倉氏が越前の支配を進めるなかで、越前に下向して荘務にあった祝信祐は当荘に検注銭を課しており、百姓が逃散したので荘役を沙汰できないと弁明している(『親長卿記』同年十一月九日条)。
 その他の大寺社では鎌倉期以前からの所領を保持していた例は少なく、むしろ南北朝・室町期に造営料所などとして新たに施入された荘園が所領化する場合が多い。まず石清水八幡宮には平安末期に越前に道田保という所領があったが、以後みえず所在地も詳らかでない(資1 石清水文書)。鎌倉後期には坂井郡坂南本郷から石清水八幡宮に上分米が送られており、南北朝期からは今立郡稲吉保が所領となっている。これらの所領の相互関係は詳らかでないが、時代は変わっても越前の国衙領の一部が石清水八幡宮に充てられていたことがわかる。そのほか応永二十五年には、越前守護斯波義重が今立郡山本荘年貢内三〇〇〇疋を石清水八幡宮に寄進している(『石清水文書』)。次に祇園社領としては越前保が鎌倉末期にみえるが、所在地は詳らかでない。南北朝期になり越前保はいっとき日吉二宮彼岸結衆に売却され、その所務を請け負った十方院叡運は年貢未進を重ねて押領したという(資2 八坂神社文書四・五号)。そののち同保は祇園社領に復し当知行となっている(同一五号)。また造営料として南北朝期に今立郡杉前三ケ村の知行が認められ、のちには社領化した(同六・一八号)。次に園城寺領としては、南北朝期の造営料所として丹生郡宮成保・今立郡小礒部保・ 足羽郡角原等地頭職がみえる。文和元年十月には足利義詮がこのうち小礒部保を造営料所として安堵し、宮成保地頭職は寄進している(資2 園城寺文書二〜五号)。北野天満宮も歴代室町将軍の崇敬を集め、所領の寄進がなされた。足利尊氏は造営料所として足羽郡得光保半分を寄進し、義満は天下安全のため坂井郡河南下郷半分を、また京都北野御霊社に足羽郡社荘の佐々木五郎左衛門尉跡を、義政も丹生郡糸生郷山方の千秋宮内少輔範安跡を寄進している。これらの所領は同社の御師の松梅院や宝成院が領知した(資2 北野神社文書一・四・五・一〇・一三・一六号)。



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