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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    七 越前の荘園
      禁裏料所河合荘
 吉田郡河合荘(河北荘)は南北朝期の中ごろに禁裏料所としてみえ、北朝を本家とする荘園であった(資2 醍醐寺文書四五号)。後光厳天皇が譲位するといっとき仙洞料所となったが、そののち再び禁裏料所となり、戦国期まで存続して皇室財政の一部を支えた。室町期の本家に対する負担は内裏に月充一五貫文を進上し、そのほかに持明院統の歴代天皇を祀った御堂寺院である安楽光院と深草法華堂に月充と加増分を納めた(「宣胤卿記」明応三年二月十日条)。領家職は二分割されて、本領主の仁和寺相応院と醍醐寺三宝院が知行した。
写真133 吉田郡河合荘 yy

写真133 吉田郡河合荘

 戦国期にも同荘は禁裏料所としてみえるが、領家の知行や得分については明らかではない。後土御門天皇は中御門宣胤を河合荘の申次に任じて、応仁の乱以来無沙汰だった年貢納入の交渉をさせた。朝倉氏は河合荘の在所を足羽郡河北とすり替えて年貢加増を拒否し、年貢額は三〇〇〇疋に固定された。後柏原天皇の代も同様だったが、中御門宣胤は老病のため申次を辞退し、やがて甘露寺元長が申次になった。中御門家と甘露寺家はともに勧修寺流藤原氏の一流で、いずれも彼らは朝倉氏と親類関係を保持し、越前に家領をもって知行していた。前述した坊城家(小川坊城家)・葉室家なども同流で、彼らは 中堅公家として朝廷を支えていたのである。永正十五年(一五一八)冬に甘露寺元長は河合荘の申次を辞退し、越前に在国していた医師の半井明重・明孝父子が申次を勤めた。当時朝倉氏は古くからの名族である乙部氏を河合荘の給人としていたが、彼らは窮乏して銭がなく、代わりに朝倉孝景の奉行人で河合荘を苗字の地とする河合五郎兵衛尉が立て替えたという(「守光公記」永正十六年二月二十二日条)。
 そののち大永三年(一五二三)には、再び甘露寺元長が申次としてみえる(「元長卿記」同年正月六日条)。そして天文三年に元長の子伊長が越前に下向しているのも、申次としての職務によるものであろう。伊長の子の経元も申次を勤めており、天文から永禄年間(一五三二〜七〇)まで伊長・経元父子がこれにあたった。年貢額は当時も三〇〇〇疋で、朝倉氏は加増を認めないかわりに最後まで比較的安定してこの額を納めさせていた。このように戦国期に荘園の不知行化が進行するなかで河合荘の年貢は順調に納められていたが、その額は室町期と比べると非常に少ないものであり、しかも朝倉氏の縁者などの申次ぎの尽力により皆済が実現されていた。



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