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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    七 越前の荘園
      公家領
 鎌倉期の越前の荘園・国衙領と地頭・御家人についてはすでに述べてあるので(一章四節一参照)、ここでは南北朝期から戦国期にいたる越前における荘園制展開の概略を述べる。そのさい全体的な推移を明らかにするために、荘園領主ごとに大まかに把握したい。まず依然として京都に集住した天皇や宮家、そして貴族・官人たちの家領についてみてみよう。
 文明四年(一四七二)八月に朝倉氏が甲斐氏を追い出してほぼ越前の中心部を平定すると、朝倉孝景は国内の荘園に半済を実施しようとした。越前に知行地をもつ公家たちは将軍足利義政に半済適用の免除を求めて認められた。そのなかには禁裏(後土御門天皇)・御室(同猶子)・安禅寺殿(同姉)、甘露寺・中御門・正親町三条・小川坊城などの諸家の名がみえる(『親長卿記』同年八月二十二日条)。当時の越前には天皇家一族をはじめとして上・下の公家たちの所領が実在しており、かなり重要な意義をもっていたことが知られる。守護支配が展開し、南北朝期から室町期にかけて遠国の家領の年貢確保が難しくなり有名無実化していく荘園が多くなるなかで、畿内近国の所領は京都の領主たちにとって存在意義を増してきた。越前も京都からみてこうした重要な位置にあり、公家領は意外に豊かな 展開をみせる。天皇家の荘園ともいえる禁裏料所についてはあとに述べることにして、まず一般の公家の荘園からみてみよう。
写真130 今立郡方上荘

写真130 今立郡方上荘

 越前の荘園のうち、藤原氏の氏長者に代々伝えられる殿下渡領には今立郡方上荘と吉田郡曾万布荘があり、いずれも南北朝期に所見がある。方上荘は備前国鹿田荘(岡山市)とともにこの時期までは氏長者家の執事と年預が知行するのが通例となっていたが、のちには方上荘が摂関家の家司に対する恩給地のようになり、特定の家が何十年も知行してその家の家領のようなありさまになってしまった(資2 宮内庁書陵部九条家文書六・九号)。また曾万布荘は鎌倉末期に春日社西塔の造営料所として一時的に興福寺西南院に充行われたが、その後も摂関家の祈料として西南院が知行し、そのまま室町期にも存続した(『康富記』享徳三年九月九日条、「宣胤卿記」長享二年九月十一日条)。近世に曾万布の北隣には印田・殿下・寮といった公家領・官司領とのつながりをうかがわせる村名が残っているが、中世との直接の関係は明らかでない。
 五摂家のなかでは近衛家と一条家の家領が目立っている。まず近衛家は丹生郡鮎川荘・越前勅旨(所在地未詳)・足羽郡宇坂荘という三か所の家領を越前にもっていたことが鎌倉期の所領目録にみえるが(資2 近衛家文書一号)、戦国期まで当知行だったのはこのうちの宇坂荘だけである。朝倉孝景(英林)は近衛家から「家門領代官」、すなわち宇坂荘の代官であるといわれているが(『後法興院記』文正元年九月十七日条)、その権原は南北朝期に補任された地頭職の系譜をひくものであろう(五章三節三参照)。宇坂荘内の一乗谷は古くから朝倉氏の 最も重要な根拠地の一つであり、近衛家は朝倉氏との関係により荘園支配を有利に進めた。そして朝倉氏の家臣と思われる加治氏との姻戚関係を契機として朝倉氏に近づき、毎年近衛家諸大夫の北小路氏を使者として越前に下向させて年貢の確保にあたらせた。明応九年(一五〇〇)分の宇坂荘の年貢算用状によれば、銭五〇貫文と御服綿三九屯が所課基準となっていたようであるが(資2 近衛家文書一一号)、実際にそれに近い額が近衛家の収入として確保されており(「雑事要録」)、戦国期の公家領としては順調に年貢納入がなされていた。その終末については、近衛尚通の記した「尚通公記」の記載最終年の天文五年(一五三六)まで朝倉氏や加治氏との交際の記事がみえるから、少なくともそのころまで存続したものと考えられる。そして尚通の孫娘が朝倉義景に嫁したというような近衛家と朝倉氏の親しい関係をみると、その後も宇坂荘の近衛家領としての存続が想像される。
写真131 足羽郡東郷荘

写真131 足羽郡東郷荘

 一条家も足羽郡足羽御厨・丹生郡安居保・足羽郡東郷荘など、足羽郡近辺の荘園を知行した。一条兼良の書いた「桃花蕊葉」によれば、それらの荘園の室町期の代官請の年貢額はそれぞれ四〇〇余貫文・六五貫文・七〇貫文であり、相当大きな収入源となっていた。文明十一年に一条兼良は、応仁以来朝倉氏に押領された家領の回復を企てて自ら越前に下向して代官職を申し付けているが(『雑事記』同年閏九月二十七日条)、その後の越前の一条家領がどうなったかについては詳らかでない。なおこれ以前に足羽御厨は、いっとき亀山法皇の子孫にあたる常盤井宮家が知行したこともあった。しかし応永二十三年(一四一六)に足利義持の命令により一条家に返付された。なおその他の摂関家では、戦国期末に 今立郡鯖江荘が二条家領としてみえる(資2 東山御文庫記録三一号)。
 次に、鎌倉期に多くの公家関係者へ所職が与えられて公家領荘園群を形成した大覚寺・持明院両統の荘園は、その後どうなったであろうか。まず大覚寺統の荘園であったもののうち、八条院領では室町期に足羽郡蕗野保を坊城俊秀が知行していたことがみえるが、長禄四年(一四六〇)以前に京都長福寺の塔頭蔵竜院に所職を買得された(同二二号)。七条院の南条郡杣山荘は南北朝期に荘内の阿久和・柚尾(湯尾)・宅良等の管領が中御門家に認められ(資2 柳原家記録四・七号)、戦国期も中御門家が知行した。安楽寿院領の今立郡小野谷荘は室町期には常盤井宮が知行していた。文明元年にその重書・雑物等が奪われたというので、以前からの家領の一つだったのであろう(資2 勧修寺文書一号)。
 持明院統の荘園だったものでは、もと最勝寺領の丹生郡大蔵荘が室町期に清閑寺家の家領としてみえ、いっとき正親町三条持秀に充行われたこともあったという(『建内記』文安元年五月十日条)。法金剛院領の南条郡脇本荘についても、戦国期まで坊城家領だったが、のちに長生軒という人物に売却された(別本「賦引付」)。長講堂領では応永十四年の目録に足羽郡和田荘・坂井郡坂北荘・敦賀郡御所侍名田の三か所がみえるが、和田荘と坂北荘は本家年貢だけでもそれぞれ米六〇〇石・綿一万両という大きな荘園だった。室町期には和田荘は葉室家が知行していた。康応二年(一三九〇)葉室長顕が亡くなるとその子の宗顕は後円融上皇から和田荘の知行を安堵された(資2 東山御文庫記録一四号)。そののち応永二十九年には宗顕の孫にあたる宗豊が将軍足利義持に和田荘の知行安堵を訴えて、義持の御判御教書を得て認められている(同一八号)。
写真132 坂井郡坂北荘長畝郷

写真132 坂井郡坂北荘長畝郷

 坂北荘も広大な荘園で、南北朝期に荘内の郷々の知行権が分け与えられていることがみえる。まず建武四年(一三三七)に冷泉頼定が院宣を申請して坂北荘内の長畝郷内玄陽名を白山に寄付しているのは、彼が当所を家領として 知行していたことにもとづくものであろう。当地は丸岡町玄女に比定される。貞和四年(一三四八)には光厳上皇がこれを召し返して、後鳥羽上皇を弔った水無瀬御影堂領に返付している。これ以前に同上皇は坂北荘内宮地郷を同堂領に交付している。これらの堂領は公家の水無瀬家が室町期も知行した(資2 水無瀬宮文書一〜六号)。康安元年(一三六一)に崇光上皇は、日野宰相に下した院宣を召し返して、曾々木村の知行を入江好寒に安堵している(資2 三時知恩寺文書一号)。この曾々木村も当荘内と考えられ、三時知恩寺の前身となる入江殿が早くから当荘に関与していたことがうかがえる。室町期に入ると、応永七年に後小松天皇は叔母にあたる見子内親王の入った入江殿に坂北荘の郷々の一円管領を安堵し、長畝・高椋・舟寄などの郷々の知行も保証して勧修寺経豊を奉行に定めている(資2 尊経閣文庫所蔵文書三〇号)。しかし応永二十九年に後小松上皇は高椋郷の年貢二〇〇〇疋を広橋兼宣に与えているので、高椋郷をのちに上皇が支配していたようである(「兼宣公記」同年十二月二十五日条)。そののち永享五年(一四三三)十月に上皇が死去すると、後花園天皇は同年十二月にその遺領処分を決定したが、将軍足利義教の申入れにより、高椋郷については入江殿に与えた(弘文荘所蔵文書五号『福井県史研究』一〇、『看聞日記』同年十二月十二日条)。そして後花園法皇が亡くなると、高椋郷の領有について入江殿と後土御門天皇の間で争いになった。いったんは後土御門の領有が認められて高椋郷は禁裏料所になったが、足利義政の強い抵抗により後土御門はこれを入江殿に返付した(『親長卿記』文明三年五月三十日・六月二日条、資2 三千院文書二号)。当時入江殿すなわち三時知恩寺は、天皇や宮家の子女だけでなく足利氏の娘たちも入寺する高い格式の寺院である 比丘尼御所となっており、足利義政の娘も喝食として入寺している。このように、高椋郷という坂北荘内の一郷の領有について公武の対立を招きかねないほどの事態になっており、当時の越前の公家領の重要さがうかがえる。しかし朝倉氏が越前を支配する戦国期にいたると、坂北荘の知行についてはあまり詳しくわからなくなる。
 その他の越前の公家領には次のようなものがみえる。まず伏見宮家領としては、応永五年に花園天皇の皇子直仁親王の遺領の一つに坂井郡磯部荘内粟田嶋がみえ、栄仁親王に還付されているがすでに不知行となっていたらしく、詳しいことはわからない(資2 勧修寺氏文書一・二号)。同じく直仁親王の宮鳴滝殿の所領の足羽郡安原荘は、朝倉為景(大心)の母天心清祐が建立した南陽寺に入寺していた比丘尼が永享三年に代官職に還任されている(『看聞日記』同年十月七日条)。南陽寺はそののち朝倉氏の子女の入る尼寺となっており、当時から朝倉氏の関係者が荘務に関与したものと推定される。丹生郡田中荘は室町期の飛鳥井家の家領であるが、いっとき南朝の後亀山天皇の孫小倉宮が半分知行しており、永享七年に足利義教は飛鳥井家への返付を小倉宮に命じた(『満済准后日記』同年三月四日条)。戦国期も朝倉氏景に飛鳥井家領田中荘公用の京進が命じられている(資2 内閣 諸状案文七号)。そのほか戦国期には、三条西家が大野郡司慈視院光玖の取次ぎにより大野郡富田荘内田野村の年貢収入一〇貫文を確保している(『実隆公記』永正四年正月三・八日条など)。そして中下級の公家である官務小槻氏は、壬生家と大宮家がそれぞれ南条郡中津原村と池上荘を知行していた(『壬生家文書』三五五号)。京都吉田社領の今立郡鳥羽荘は、享禄二年(一五二九)に越前へ下向した清原宣賢からその二男で吉田家に養子に入った吉田兼右へ堪忍料として年貢の一部を与えることが要求されており、吉田家領としての性格ももっていた(「業賢日記」同年三月二十七日条)。また坂井郡小森保については、戦国期まで典薬頭が知行している(資2 松雲公四三号)。応仁二年(一四六八)にも典薬頭丹波定基の所領が越前にあったことが知られるから、おそらくこれと同一のものと推定され(「後知足院関白記」同年二月十九日条)、下級公家の 典薬頭の所領も戦国期の越前で健在であった。
 以上のように、南北朝期から室町期さらに戦国期へと、越前にあった上・下の公家領はかなりの数がみえ、荘園として重要だった。



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