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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     六 若狭の荘園
      国富荘
 国富荘は、現在の小浜市次吉・熊野・羽賀・奈胡のあたりと北方の若狭湾岸の浦である犬熊の地を含んだ地域にあたる。
 吉原安富(左大史小槻隆職の仮名)が私領としていた国富保は、永万元年(一一六五)若狭国司庁宣によって官御祈願米二〇石・造八省料米一〇〇石・法華会料米三五石・官厨家納絹代二〇石を進済する便補保とされ、太政官厨家領国富保となった(資1 壬生家文書)。そののち小槻氏はさらに荒野の開発を進め、建久六年(一一九五)には保司・太政官厨家の申請により四至を定めて示を打って立券され、田地三四町余・荒地三町余と犬熊野浦からなる荘園として、国郡使の入勘と課役が停止されるとともに小槻氏子孫の相伝領掌が認められて、小槻氏が領家職を伝領する官務家領荘園となった(資2 吉川半七氏所蔵文書一号)。
 十四世紀末には領家知行分に半済が行なわれていたことが知られ(『壬生家文書』三五八号)、幕府はこの半済を停止している。しかし応永十六年には、一色氏の守護代三方常忻に領家から「領家職半済所務」を行なうことが認められており(同七二七号)、守護方は実質的に半済方の支配権を維持していた。永享九年十月に将軍は領家職半済を停止したが、 守護代の代官などはこの命令を無視して荘園に乱入して、女性や童を召し取り、荘民の資財雑具を奪い取っている(同三三七号)。永正十六年が官務家領の荘名のみえる最後であり(「壬生于恒記」同年五月十二日条)、そののちは小槻(壬生)氏の支配を離れていったものと思われる。



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