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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     四 河口・坪江荘
      荘園の支配機構
 両荘ともに大乗院門跡に相承された検校職が領家職に相当する。検校のもとの検校所は荘園支配にあたり、検注帳以下の帳簿数の管理、恒例・臨時の課役の徴収、一切経衆・諸職人・名主の補任、検断などを行なった。検校所の下には給主職と奉行が置かれていた。給主職は河口荘・坪江上郷・坪江下郷に各一人がおり、検校所の下にあって実際の荘務を行ない、これが河口荘では預所職ともいわれたようである。奉行は河口荘に坊官侍二人、坪江郷に一人が補任されており、検校である大乗院門跡の命令を給主に伝えた。現地支配にあたったのは各郷に置かれた別当・専当・公文・徴士・政所などで、これらは職人あるいは地下職人と総称された。
 南北朝期以降になると越前守護斯波高経をはじめとした諸勢力の押妨を受けるようになり、そのなかで代官請負制が実施された(三章一節四・四節二参照)。室町期になると、政所・公文には在地有力武士や守護代などの武士が補任され、別当・専当などには在地寺院や地下侍の例もみられる(「寺門事条々聞書」)。長禄合戦後には一部直務支配とされたが、請負代官として守護代の甲斐氏や、朝倉氏、在地有力武士の堀江氏などが任命されていた(三章六節参照)。応仁・文明の乱の過程で朝倉氏一族やその家臣がこれらに代わって請負代官に任じられた。こうしたなかで河口荘・坪江郷の半済について興福寺がこれを停止するよう求めたが、国方において朝倉氏に忠節を尽くした者たちが半済を要求しているので応じられないと朝倉氏は拒否している。こうして大乗院門跡の支配は有名無実化していった。しかし朝倉氏は大乗院の領主権を否定してはおらず、本役銭の納入は朝倉氏の滅亡までまがりなりにも 続けられた。
 朝倉氏滅亡後には一向一揆勢に押領されたため、河口・坪江両荘の回復について天正二年(一五七四)十一月に大乗院は織田信長に嘆願し、さらに翌三年八月の信長の越前攻めのさいには、大乗院門跡尋憲が自ら信長の陣中見舞と称して越前へ下向し種々働きかけたが実現されず(資3 山田竜治家文書一号)、当荘は荘園としての結末を迎えることになった。



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