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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     四 河口・坪江荘
      坪江郷と三国湊・金津
坪江郷内において「都市」として発展していた三国湊と金津は、在地支配のうえで特別な位置を占めた。
 三国湊は、坂井郡内を流れる兵庫川・竹田川や、越前南部から流れる足羽川・日野川などの河川が九頭竜川に合流して日本海に流入する地点に位置しており、日本海海運と内陸水運の結節点として越前における諸物資輸送の要津であり、商人・問が活躍した(五章二節参照)。このような交通・交易のうえで重要な役割をもっていた三国湊は、大乗院により坪江下郷内の一つの所領単位として把握された。その田積は本田二町六段小、算失出田六段小、新田七町八段小の計一一町と記され、天役・月別院役・草手・在家地子をはじめ長者銭・鵜飼在家役などが徴収された。また三国湊から漁に出た船に対しても、越中網鮭・能登鯖・鱒網などが課税された(「坪江下郷三国湊年貢天役等事」)。鎌倉期には大乗院により湊雑掌が、室町期以降は三国湊両代官が置かれ、湊の支配や訴訟の沙汰を行なった。
 一方、金津は「河口溝江、坪江下郷と入組」とみえるように(『雑事記』文明十二年八月三日条)、河口荘溝江郷と坪江下郷の境界に位置していた(一章六節五参照)。永仁五年の検注のさいには坪江下郷金津阿弥陀寺(神宮護国寺)と阿古江薬師寺は寺内検断が保証された。また翌六年には「春日大明神八所御正躰」が奈良御笠山から金津に下着し、坪江惣社新春日社ができ、河口・坪江両荘の宗教的・精神的拠点とされた(「河口荘綿両目等事」、「坪江上郷条々」)。金津は北陸道沿いの要衝で三国湊や加賀口との陸上交通の結節点として栄え、六日市・八日市などの定期市も立った(五章一節二参照)。宝徳二年(一四五〇)十二月一日の坪江政所高屋一鏡房の注進によれば、「金津ノセンソウ寺」「金津ノ道場」「金津随北寺」「八日市ノキクヤエモン三郎」といった在地の人物や寺庵などが有力者として活動しており、大乗院門跡知行地の年貢を沙汰している(「河口荘田地引付」)。金津道場は在地支配の拠点となり、定使や寺使が滞在しており (『雑事記』長禄二年十一月二十一日条)、また金津大文字屋は定使の対応や年貢算用にあたっていた(同 長禄二年九月二十八日条)。戦国末期にも金津の米屋坂野宗左衛門が河口・坪江荘の年貢納入に関わっている(「尋憲記」元亀三年閏正月二日条)。
 



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