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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     四 河口・坪江荘
      坪江郷の荘田と年貢・公事
 「河口荘綿両目等事」によれば、坪江郷では寄進以前、まだ坂北荘に属していた弘安六年に検注が行なわれ、これをもとに正応六年六月に検注目録が作成された(ただしこの正応六年というのは、寄進のときの正応元年か、あるいはそののちに検注が行なわれた正応三年か、以上の「元」あるいは「三」を「六」と尋尊が誤写したのではないかと思われる)。これによれば、本仏神田・新仏神田・同余田・百姓伏田および渡別用途料田(本田・新田)に区分され、合計は六〇二町七段三〇〇歩であり、これを「御記分」といっている。このうちに大野郡平泉寺や坂井郡豊原寺・横山社・千住寺(千手寺)などの在地有力寺社の除田三三町余や、雑掌・下司・公文・政所などの荘官給の除田四〇町が規定されている。以上の田数はこれ以降も当郷田数の基準とされた。なおしばしば坪江一〇〇町歩と称されたのは、本仏神田から除田を差し引いた定田と新仏神田・本仏神余田・新仏神余田の合計一〇三町二段をさすと考えられる。
 当郷では寄進以後、正応三年と永仁五年(一二九七)に検注が行なわれたが、この年貢・公事については「坪江上郷条々」「坪江下郷三国湊年貢天役等事」に詳細に記載されている。年貢としては米・御服綿、色々用途としては銭納化した四季天役・月別院役・草手をはじめ長者用途・吉方方違の費用など、細々済物としては胡麻油・白苧・節季鴨・畳面莚をはじめ、海辺で海産物、山手で絹、牧村で牧馬口料が賦課された。年貢・天役は段別賦課、細々済物は在家別・名別賦課であった。



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