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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     四 河口・坪江荘
      大乗院領坪江郷の成立
 坪江郷が大乗院門跡の領掌となるのは河口荘より遅く、正応元年(一二八八)のことである。同年四月二十一日後深草上皇が春日社頭で法相宗の僧侶による新三十講を行なう御願をおこし、その財源として坪江郷を寄進し、大乗院門跡に相承させることにした(『勘仲記』同日条)。
 嘉元三年(一三〇五)九月十三日の坂北荘年貢課役注進状によれば、坂北荘本家年貢の呉綿一万両から後深草上皇の寄進によって春日社三十講料所となった坪江郷の定済呉綿を除くとあるので、坪江郷はもとは坂北荘のうちにあったことが明らかである(資2 東山御文庫記録四号)。すなわち後深草上皇は、自ら管領する長講堂領坂北荘のうちから坪江郷を割いて春日社三十講料所に寄進した。坪江上郷の田地の所在を記したとみられる「坪江上郷条里」と、復元された古代の坂井郡東北条里と比較すると、古代の条里がほぼ中世も同様に引き継がれていたことが知られる (資16下解説編)。また疋田斎藤氏の苗字の地である疋田は敦賀郡内の疋田ではなくして、この坪江上郷内にあったことが明らかにされている。したがって坪江郷を含む坂北荘の成立には開発領主の疋田斎藤氏が関与し、おそらくその成立時期は平安末期にまでさかのぼると推測される。



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