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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     四 河口・坪江荘
      河口荘と十郷用水
 広大な荘域をもつ河口荘一〇郷が中世を通じて一つの荘園としてまとまりを保ったのは、平安末期からこの地域の開発を可能にしてきた九頭竜川から取水する十郷用水(鳴鹿用水)に結びつけられていたことによるといえよう。一〇郷の各郷内の春日社は、いずれも用水が分岐する地点に勧請され、そのうち一〇郷一〇社の筆頭であった本庄郷の春日社は「井口神社」とも称された。その神官である大連氏は南都から越前に入った社家の子孫と伝え、中世においては用水を管理し在地の中心的立場にあったと推定され、近世でも井奉行と本庄郷春日社神官を務めている。戦国期には朝倉氏もこの水利権を重視して、天文六年(一五三七)六月二十八日付の朝倉氏一乗谷奉行人連署定書では鳴鹿大堰の普請、筒木や樋の規格、井料米などの規定が示されており(資4 大連三郎左衛門家文書一号)、用水の維持・管理に努めた(三章五節四参照)。また十郷用水をめぐる係争は朝倉氏によって裁かれていた(『雑事記』明応八年七月二十四日条)。



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