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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     四 河口・坪江荘
      河口荘の荘田構成と年貢・公事
 大乗院門跡の領掌は、河口荘については東北院との争いが決着する弘安八年、また後述のように坪江郷については寄進された正応元年で、ほとんど同時期に確定した。両荘は合わせて北国荘園と称され、興福寺領荘園のなかで随一の規模であった。
図26 坂井郡河口・坪江荘付近図

図26 坂井郡河口・坪江荘付近図

 河口荘では早速に同荘兵庫郷などの「名田帳」や「河口荘兵庫郷名寄帳」が作成されたように、荘内では年貢収取のための荘田の掌握、公事支配のための名の再編成が進められたと考えられる。弘安十年には荘内一〇郷の 荘園を集計した「河口荘田地引付」が作成された。これと嘉元三年の「諸荘算用状引付」によって荘田構成が明らかとなる。
 これによれば、荘田の総面積は一一六七町余で、除田四二〇町と残田七四七町余に区分されている。除田は仏神田一〇八町余、本一色田一一町余、別納・別名として得丸・岩永・太郎丸・藤沢・武沢・福光・荒凉田・春吉などである。これらのなかで春吉は一四四町余で六斗代ないしは斗代不同であるが、その他は一石二斗の高斗代である。仏神田の内訳は「河口荘御前帳写」に詳細に記されている(資4 春日神社文書一号)。以上のほかに長崎泉江代が兵庫郷に三町、桑原江代(坂北江代)が溝江郷に三町六段あり、これらは十郷用水の導水源が長崎と桑原にあって、その井料田であったと考えられる。
 除田以外の残田は新一色田・元当新田・古新田・土々呂岐および本田であり、それぞれから不作分・損田・人給田・例損田(預所分)・佃などを差し引いた田地について分米が徴収された。このうち新一色田は、除田分に属する本一色とは区別されて残田分に入れられている。本一色田は立荘当時から領家が名主職を所有し、それによって一般名田の負担する本役に加えて加地子分をも徴収されたとみられる。これに対して新一色田は、「名田が子細あって領家に没収されたもの」である(「河口荘綿両目等事」)。そのうち年貢の収納が期待できないものは損田扱いにされるが、それをも含めた面積が各名に割り当てられ負担の責任を負わされ、その分米は一石二斗の高斗代であった。元当新田・古新田・土々呂岐は開発田で、その田数はそれほど多くはないが、このなかで古新田は細呂宜郷に、土々呂岐は荒居郷に属しており、特定の地域での集中的な開発であったことが知られる。
 荘田総面積は弘安十年と嘉元三年とで除田においてわずかの差があるだけで、全体の田数は一定していたとみられる。 しかし実際には不作・現作および損田・得田の割合は変動しており、ことに損田の減少、得田の増加という傾向がみられる。また「河口荘田地引付」は、分米すなわち年貢米の収取という観点から作成されたものであり、ここに示された荘田は現実に河口荘に存在する田地のすべてではない。例えば、「名田帳」にみえる「余田」は含まれていないのである。
 荘園支配では公事収取を基軸とする本名体制がとられたが、鎌倉後期には本名の分割、新名の簇出、農民側における余田の蓄積などの現実に対応せざるをえなくなって、名の再構成や「請名」という形態がとられている。この体制のもとで徴収される公方所役は、御桑代綿・御桑代絹・引出物(絹・准絹)・白苧・春草手布、各名の在家に対する布・藍代・蓆・簾・油・大豆、そのほか田成畠地子銭・御糒・春吉の紫布など、多様な産物を含むものであった(「名田帳」、「河口荘地下職人等注進状」)。



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