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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     四 河口・坪江荘
      河口荘の成立
 白河法皇は康和二年(一一〇〇)春日社の神前に一切経転読を始めたさい、僧侶に対する給付財源として当荘を春日社へ寄進したという。しかしこれより以前、当地には藤原利仁の流れをくむ斎藤氏の豪族がいて、彼らが大和の春日明神を祖神として春日社を勧請し、当地方の開発を進めていたと考えられる。すでに寛弘八年(一〇一一)には春日社へ供米一〇〇石が寄進されたといわれ(資4 春日神社文書一号)、春日社と在地の藤原流諸氏との関係が結ばれるなかで、荘園化が進められていたと推定される。ただ当荘が春日社の一切経料所となったのは、康和二年の白河院の寄進からであろう。その後、同料所の検校は「天気に依り、時宜に随って補任」されたが、後鳥羽院のときに雅縁僧正が平家の南都焼打ちで焼失した塔を再建し、久しく絶えていた御塔般若会や春日社法華唯識三十講を再興した功によって検校に補任されて以後、大乗院門跡が代々これを継ぎ、当荘を領掌することになった(「春日社毎日不退一切経方条々」)。 しかし興福寺内では、この領有をめぐって鎌倉初期から大乗院と東北院が争い、結局鎌倉末期に当荘は大乗院門跡のものとなった(「三箇御願料所等指事」)。
 鎌倉初期には地頭が置かれていたが、建永元年(一二〇六)に興福寺がこれを訴え、院宣によって将軍源実朝が地頭基員を停止した(同前)。この基員は幕府の近臣野本斎藤基員と考えられ、武蔵国比企郡野本(埼玉県東松山市)を苗字の地とする鎌倉幕府草創の有力御家人であるが、本貫地は越前で何らかの関係を保っていたのではないかと考えられている。すなわち基員の子息範員は「河口太郎」と称し、また越前の疋田斎藤利延の娘を妻にしているとみられるからである(『尊卑分脈』)。その後、承久の乱後に没官領として地頭が再び置かれ、「武蔵局」という人物が補任されたが興福寺側から訴えられ、ついで寛喜元年(一二二九)には当荘への守護使不入が命じられ、荘園の一円化が進んだ。
 当荘は弘安八年(一二八五)に大乗院門跡の相伝所領であることが認められた。検校としての大乗院門跡が当荘一〇郷内の政所・公文・専当・別当以下諸職および名主・寺院などを補任・成敗し、これがことごとく検校の自専とされた。



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