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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     四 河口・坪江荘
      河口荘と坪江郷の荘域
 河口荘と坪江郷はともに坂井郡にあって、河口・坪江郷と総称されたり、また興福寺大乗院門跡領として合わせて北国荘園とも称されたりしているが、本来は成立事情も荘域も別個の二つの荘園である。 
写真124 坂井郡河口・坪江荘近傍図

写真124 坂井郡河口・坪江荘近傍図

 河口荘はその主要部が『和名抄』の坂井郡川口郷にあって、荘名はこれに由来している。当荘は本庄郷・新郷・王見郷・兵庫郷・大口郷・関郷・溝江郷・細呂宜郷・荒居郷・新庄郷の一〇か郷からなる。『雑事記』文明十二年(一四八〇)八月三日条の付図には、この一〇か郷と隣接する坪江郷(荘)の所在が概念的に示されている(写真124)。これによれば、細呂宜郷を除く九か郷は鳴鹿川(竹田川)と崩河(九頭竜川)の間にあり、これらとは離れて細呂宜郷の上方と下方が加賀国に接して所在した。細呂宜郷以外の九か郷は現在の坂井町から芦原町南部を中心に春江町・金津町・三国町の一部にわたり、細呂宜郷は金津町の北端部に比定される。
 坪江郷は『和名抄』の坂井郡坪江郷の地にあたり、荘名はこれに由来するが、後述のように坂井郡坂北荘に属していたときの坪江郷の呼び方がそのまま続けられた。当郷は上・下二郷からなるが、現在の金津町・丸岡町・芦原町・三国町にわたる坂井郡東部山間部と、北部海岸・丘陵部の広い地域に比定される。
 両荘の荘域は別々であるが、河口荘の細呂宜郷と他の九か郷との間に挟まれて、坪江上郷と同下郷の一部とがあった。金津では両荘が入りくみ、また石王名・二名半・鶴丸名のように細呂宜郷と坪江郷内との両方に記される ところもある。『雑事記』文明二年七月十三日条の「河口荘郷々内村名」には本庄郷などの五か郷の村名が記されているが、これらをはじめ両荘内の地名や名の名称は現在も多く残っている。



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