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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     三 倉見荘
      南北朝から室町期の倉見荘
 若狭では鎌倉期を通じて東国出身の御家人が著しく勢力を伸ばし、国御家人はそれに押されて次第に凋落していったが、倉見荘も前述のように鎌倉末期には守護領化し、同荘地頭職を守護であった北条氏得宗が握っていた可能性が強い。鎌倉幕府が滅びたあと若狭では守護が頻々と交替し、政治的に混乱した状況が続いた(本章二節五参照)。御賀尾浦にもそれまで浦の最有力者であった刀の賀茂氏にかわって、倉見荘公文であったことが機縁になったのか、近江国伊香社の神主の一族で御家人でもある大音氏が新たに入ってきた(同五〇・六四号)。外来の御家人にとって、海とかかわりの深い生活の営まれる浦という社会のなかで有力者としての地位を保ち続けることは容易ではなかったはずだが、これ以降大音氏は御賀尾浦のなかに溶け込むべくさまざまな努力をし、ついに刀として安定した地位を築くことに成功する。
写真123 三方郡倉見荘

写真123 三方郡倉見荘

 一方、細川清氏が守護となっていた文和四年(一三五五)ごろには、御賀尾浦は国人らに給地として与えられ、彼らが日常の所務にも携わっていたようで、前代以来の系譜を引き継いで倉見荘には守護の力が強く及んでいたと考えられる。そののち応永七年(一四〇〇)には、幕府に功があったとのことで、奥州探題として陸奥国を本拠地にしていた大崎満持に当荘が与えられており(「余目氏旧記」)、倉見荘は幕府の支配下に入り料所化していたことがうかがわれる。 そして応永二十年にいたり、将軍足利義持によって当荘は京都等持院に寄進され(「等持院常住記録」)、以後、等持院を領家とする荘園になるのである。鎌倉期には確認できた新日吉社領としての実態がいつごろまで続いたのかはわからないが、南北朝期に入ると同社領としての徴証はみられなくなっている。
 等持院では庄主とよばれる僧が荘園経営にあたったが、倉見荘でも年貢の請取状などはこの庄主から発給されている(資8 大音正和家文書一〇四号など)。等持院領としての実態は約半世紀にわたって続いたが、その間にも守護武田氏からは要銭五〇貫文を懸けられたり、守護不入地としての制約を破ろうとするなどさまざまな圧力がかけられ、等持院は刀の大音氏と連絡を密にとりながら、必死になって荘園の維持を図ろうとしていた(同一〇六号など)。しかし応仁・文明の大乱の勃発とともに等持院による支配は困難となり、倉見荘は等持院の手を離れていったようである。御賀尾浦も、本荘との直接的な関係は諏訪社の神田を置いているといったつながりのみになり、一つの荘園としての政治的一体性は希薄なものになっていった。ただ、近世に入ってからも川流域から常神半島にかけての地域を「倉見荘」とよんだ事実があり(「若狭郡県志」)、荘園の実体が失われたのちも地域呼称としてその名はあとまで残ったようである。



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