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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     三 倉見荘
      御賀尾浦の支配
写真122 三方郡御賀尾浦

写真122 三方郡御賀尾浦

 御賀尾浦は領域的には倉見荘の一部として扱われたが、その生産の実態・社会の構造・支配方法は、海辺に立地する集落としての特質から、内陸の農業中心の村落とは異なるものとなっていた。しばらく史料的にたどることのできるこの浦の状況を追いかけてみよう。
 浦々には刀とよばれる職に補任された有力者を中心とした海民の集団が住んでいたが、鎌倉初期ころまでは永続的な定住をせず、新たな浦を求めて開発を続ける集団もあった。御賀尾浦の有力者は賀茂氏で、地頭から刀職に補任され、また日吉社や新日吉社から神人に補されていたことが知られる。海民の集団は、漁猟だけでなく製塩や廻船、それに小規模な田畠の耕作なども行なったと思われるが、鎌倉期前半に領主からの賦課の対象とされたのは主に製塩であった。御賀尾浦の大音家に伝わる古文書のなかには、山争いに関する史料が多く含まれている。争いは浦の内部でもおきたが、それ以外にも南隣の三方郡於河浦(三方町小川)との間では、辺津浜山という山をめぐって争いが繰り広げられ、この相論は鎌倉から南北朝期にいたるまで長い間続けられた。浦という海に面した環境のなかで山が紛争の原因となったのは、塩づくりに必要な薪の採取地として山が重要な意味をもっていたからである。御賀尾浦のある常神半島は、細く小さいながらも標高二〇〇〜四〇〇メートルの山に覆われて おり、樹木に恵まれていた。この木が塩の生産に欠かせない資源となったのである。また鎌倉後期以降、塩に加えて漁獲物が本格的に領主の収納の対象になってくるが、漁猟を行なううえでも山は重要な意味をもっていた。若狭湾岸は、鯛・鯖・鮪・烏賊など漁業資源に恵まれており、陸地の近くに網を張ることで多くの漁獲をあげることができた。入江ごとに発達した集落(浦)は鎌倉後期以降、より良い漁場、より多くの漁場を求めて自村の入江の外にも網場を広げていくようになった。しかし小浦が連続するリアス式の海岸沿いには同じような海辺集落が連続しており、網場の拡張はすぐに他浦との争いのもとになったのである。こうした場合、自村の正当性を主張する根拠になったのが山の帰属であった。若狭国では、「両方山の懐内は其浦に付き漁仕り候」(秦文書四五号)、または「磯海は陸地に就きて進退せしむ」(資8 上野山九十九家文書一号)、すなわち海に対する権利は陸地の権利の延長として考えるという慣例がある。したがって海に面した山の帰属は、その地先に広がる海をめぐる権利とも深くかかわっていたのである。そして鎌倉末期には、塩以外に史料上に飛魚・干鯛・蚫(鮑)・鮨桶などの魚介類が「年貢」として納められるようになっている。これはもちろん漁猟の発達を示すものであるが、同時に、漁猟にまつわる紛争に百姓側が領主の権威をかりる必要が出てきたことを意味し、ひいては漁猟が領主の賦課の対象になったことを示している。
 漁猟からの収納にはさまざまな工夫がこらされた。漁猟は年に一度あるいは 数度の収穫を画期とする農業とは性格が異なり、年間を通して継続的に成果のあがる産業であり、さらに漁獲物は自給品というよりは商品性の強いものである。このため早くから銭貨の流通がみられ、領主の所在の遠近や領主と漁民の力関係によって、現物納ばかりでなく代銭納も行なわれた。鎌倉期の御賀尾浦では現物納も確認できるが、室町期には守護武田氏からの注文に応じて随時、美物(美味な魚介類)を納め(資8 大音正和家文書一四五号など)、これに値段をつけて規定の年貢額と相殺するなどの方式もみられた。



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