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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     三 倉見荘
      鎌倉期の倉見荘
 三方郡倉見荘は、三方湖に注ぐ川の中・上流部周辺に広がった荘園である。鎌倉期の文書には、岩屋・井崎・白屋・黒田など現在まで残る字名がみられ、倉見の地名とともにかつての倉見荘の故地が推定される。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳案(大田文)には一四町七段八八歩の荘園としてみえるが(ユ函一二)、永仁三年(一二九五)の実検田目録によれば、加野新田三七町余をも加えた田数総計一〇〇町を越える規模の大きな荘園として記されている(資8 大音正和家文書二一号)。また川沿いの本荘とは別に、若狭湾に突き出た常神半島の先端に近い三方郡御賀尾浦(三方町神子)も倉見荘の一部とされており、飛地のような形で扱われていた。
図25 三方郡倉見荘付近図

図25 三方郡倉見荘付近図

 荘園としての成立は嘉応二年(一一七〇)ごろと考えられ、領家は京都にある新日吉社であった。一方で倉見荘は、若狭の有力在庁官人稲庭時定の没収所領を受け継いだ若狭忠季が地頭職を有していたことが知られる(ユ函一二)。当荘の地頭に関しては、忠季のあと誰に替わったか定かではないが、鎌倉末期には守護得宗領となっていたらしく、またそれ以前遅くとも十三世紀の後半までには、東国出身の御家人が実質的に在地の管理にあたるようになっていたと考えられる。御賀尾浦では永仁ころから年貢などの貢納に関して何度か訴えが出されているが、その裁許を下した地頭のなかに、鎌倉幕府の有力御家人である二階堂氏とおぼしき人物が見出されている。なお荘内には恒枝という他と較べてかなり規模の大きな名があったが(資8 大音正和家文書二一号)、これは倉見荘を本拠にしていたと思われる御家人倉見氏が名主であった可能性が高い。
 ところで、前述のように倉見荘は御賀尾浦をその領域に含み込んでいた。このように内陸の荘園と海辺の浦とが一組にされる例が、若狭ではほかにも国富荘と犬熊野浦、宮河荘と矢代浦、西津荘と多烏浦などの間にみられる。若狭国は周知のように、漁猟・製塩が発達し、また日本海交易の舞台として廻船人の拠点も点在していた。そうした事情を背景に、荘園領主は海産物に対する欲求を満たし、あるいは日本海への窓口としての役割を期待して、浦々を領域化していったものと理解できる(一章六節六参照)。実際、若狭に荘園をもつ領主の間に海産物を入手しようという欲求が強かったことは、小浜から南川をさかのぼった山間に位置する名田荘からですら、領主が公事として塩・昆布・蚫(鮑)などを納めさせようとしていることからもわかる(資2 真珠庵文書二九号)。新日吉社も倉見荘を若狭における最大の拠点とし、平安末期以来少なくとも伯耆にまでいたる日本海を広く交易の舞台としていた海人の根拠地御賀尾浦をも組み込むことで、海産物の収取と日本海への窓口を確保しようとしていたと思われる。また近江にある日吉社の動きも活発で、嘉禎元年(一二三五)には日吉神人拒捍使代官の大和房と称する人物が三川浦(御賀尾浦)へ乱入するという事件もおきている。御賀尾浦は新日吉社領であり、住人は新日吉社の神人として油役を勤めて きた。ところが大和房は彼らを無理やり日吉社の神人にしようと企て、住人らが反対するのも無視して日吉社神人への任符(任命状)を住宅に「捨置」いていったというのである。日吉社は少しでも神人を獲得しようと、このような多少強引な手段も使っていたのである(資8 大音正和家文書六号)。このほか贄としての海産物も注目されており、御賀尾浦には延慶三年(一三一〇)に東国出身とおぼしい藤原盛世なる人物によって信濃諏訪社の末社が勧請され、諏訪本社にも干鯛・員魚などを納めることになっていた(同二七号)。



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