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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     二 名田荘
      名田荘をめぐる政治情勢
 先にもふれたように、名田荘は多くの村から成り立っていたため各村々はそれぞれ大変複雑に相伝が行なわれ、それにともなう紛争も多発した。その背景には、相伝のあり方が一種場当り的ともいえる形をとる場合の多かったことなどの事情があった。ただ一方で見方を変えると、これは村々が激しい争奪の対象になったことを意味し、それだけ名田荘各村のもつ価値が高かったことを示しているともいえる。荘は左衛門尉盛信から伊予内侍に交換され、さらに娘の大姫御前へと相伝されるが、こののち須恵野村など一部が京都禅林寺禅尼生仏に流れ、大姫御前から子息の安居院実忠へと伝えられた大部分も、続いて三条実盛―大納言典侍―花山院兼信と受け継がれていくなかでさまざまな問題が乱れおこり、複雑な相論を多発させるようになる。結局南北朝期にいたり、田村・下村・知見・井上の村々は京都徳禅寺の僧である徹翁義亨のもとへ集積される。そのほか、上村は土御門家、中村は京都泉涌寺、須恵野村は京都醍醐寺三宝院へなどそれぞれ領主が定まっていく。
 しかしこれらの領主による支配も長くは安定せず、十四世紀後半からは次第に守護被官による押妨が始まっている。十五世紀に入り、文明八年(一四七六)には「乱世押妨」を停めるよう幕府から命令が出されているが(『大徳寺文書』四〇二号)、日本国中が「乱世」に突入するなかで効果はなく、十六世紀に入ると徳禅寺はついに直務を断念せざるをえなくなり、武田氏被官の請所となった。年貢の請負額はわずかに五貫文と定まり、もはや昔日の面影はなくなってしまったのである。やがて天文七年(一五三八)には、名田荘に本拠を据え寺家に対する納所の責任者であった有力被官の粟屋氏が武田氏に叛く事件がおき、政治的にも混乱が著しさを増した(四章四節一参照)。そして十六世紀後半には、「名田庄近年無沙汰」と記されるありさまとなり(資2 真珠庵文書一二四号)、ついに荘園としての支配は困難な状況に陥ったのである。
 こうして名田荘は十六世紀までにはその荘園としての実体を失い、戦国の世に突入していったのである。以後四〇〇年余の星霜を経て現代にいたっているが、かつて存在した荘園の名は「名田庄村」として今日でも活かされている(領域的には一部が小浜市に編入されている)。何々荘という荘園の呼称がそのまま現代に残った例としては近隣地域によく知られた「太良庄」があるが、名田荘とは規模や内部の村数などの点で大きく条件が異なる。名田庄の場合、「荘(庄)」までを含めてその名を残したのは、南川の単一水系沿いをほぼ包み込む形で多くの村の集合体として存続し、田畠以外に山を生業の大きな柱としている共通の地域を総体としてよぶ場合に、「名田村」よりも、まさにその領域全体を指し示す「名田荘」の呼称が何よりもふさわしかったからではないかと思われる。その意味では、いくつもの村に分かれてそれぞれに異なる領主を戴いた時期もあったとはいえ、名田庄ははるか中世以来一つのまとまりをもった地域であったといえるのである。



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