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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     二 名田荘
      名田荘民の生活
 伊予内侍ののち、これら名田荘内の村々は、後述するように非常に複雑な経緯を経てさまざまな領主のもとへ分割・相伝されていく。そのなかで比較的在地の様子がわかるのは、現在の小浜市中名田にあたる田村の状況である。田村は南川の支流田村川に沿った谷全体をさし、荘内ではかなりまとまった平地がある。正中二年(一三二五)の田村河成検注帳案によれば一三の名が見出され、いずれも田村川に流れ込む小川のつくる小さな谷ごとに比較的まとまった田地をもっていた様子がうかがわれる(同三二五号)。この年は水害に遭ったようで、本田一〇町余のうち三町ほどが河成として控除されているが、それでも総計四八石余の年貢米が算定されている。領主の支配はこのように水田に対する賦課をまず中心においた形で進められたが、実際には荘民の生業は決して水田耕作のみに収斂されるものではなく、山と川を存分に活かした営みが繰り広げられていたのである。
 弘安三年(一二八〇)、伊予内侍から四代の孫にあたり権中納言公泰の子息であった三条実盛が藤原氏女に坂本村を売却したとする文書には、九〇〇貫文という代価が書かれており(資2 真珠庵文書三号)、また嘉元元年(一三〇三)に同じ三条実盛が娘の権大納言典侍に渡した譲状によれば、三万疋(三〇〇貫文)で他人に預けてあった田村九か名を実盛が請け出して譲るとある(『大徳寺文書』一三八号)。名田荘を田地に恵まれない山間の貧しい荘園とみた場合、同荘をめぐってやりとりされたこれらの多額な銭は理解しがたいものである。しかし視点を変えて、山と川に恵まれ田地も開かれつつある広大な荘園として見直したとき、名田荘は全く異なった様相をみせる。
写真121 遠敷郡名田荘下村

写真121 遠敷郡名田荘下村

 荘内の村や名の検注帳に書かれた田地の項のうしろをみると、綿(真綿)を生産する養蚕、鮎をとる川漁、日常衣料の 繊維をとる苧麻や油を搾る荏胡麻、それに大豆などを栽培する畠地の耕作、蕨・ぬかご・胡桃・栗・柿・椎の実など、山菜や果実の採集といった多様な在地の生業をうかがわせる記載が多く見出される。荘民は決して水田耕作ばかりをもって生活していたわけではなく、むしろ田地に倍する畠地(田村国次名年貢注文では、田七段に対して畠は一町八段以上もある)、そして山・川を巧みに利用しながら生活を営んでいたことは確かである。領主はこうした多様な生業の上にも賦課の網をかぶせようとしているが、基本的には「立物」という名目で一定量(各名七斗一升五合)の年貢米を充てた交易の形でしかとらえきれなかったようである(同三二五号)。
 そのほか、在地のより大きな収入源として河川交通と林業が挙げられる。南川は、北陸屈指の要津であった小浜と名田荘とを結ぶ交通路として、また名田荘を通過し小浜街道・周山街道を経て京都にいたるルートの一環として重要な役割を果たしていた。嘉暦二年(一三二七)和多田村で徴収される河手(関銭)が年額六〇貫文にものぼっていることは(同一四一号)、河川交通の活況を示すものと理解できる。そしてそれにともなう仕事は、名田荘民にもいくばくかの収入を分かつことになったであろう。一方林業に関しては、海村として有名な遠敷郡多烏浦で貞和四年(一三四八)天満宮が修造されたときのほか(秦文書九〇号)、近隣の寺社の造営時に名田荘の材木が使われたことが、残された文書や棟札などから明らかである。当時の林業は現在のような植林や手入れを行なうものではなく、自然に生える樹木を利用するだけのものであったと考えられるが、広大な山を 抱える名田荘では重要な生業であり、伐採・造材・筏組み・川流しにいたる技術をもった人間がいたようである。ただ荘園領主の賦課のなかにはさかんであったはずの林業への課税は見当たらず、領主の掌握していた生業の埒外にあったようである。
 このように名田荘では、山と川とを存分に活かした営みがずっと続けられてきたのである。そして京都と小浜を結ぶ交通の活発なさまや、中世末期において確認できる若狭猿楽の来訪などからすると、名田荘は決して山間の孤立した地域ではなく、日常の業においても文化面においても、周辺地域とさまざまな交流を保っていたことがわかってくる。



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