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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     二 名田荘
      名田荘の成立
 小浜に注ぐ南川を上流にさかのぼっていくと名田庄村がある。この村名は、古く平安末期に成立した荘園である名田荘に由来する。荘園となる以前の「名田郷」は、京都に住む左衛門尉盛信なる人物の私領であったが、仁安三年(一一六八)にいたり、盛信はこの地を高倉院に仕える伊予内侍の所領であった摂津国野間荘(兵庫県伊丹市)と交換した(『大徳寺文書』三六四号)。「名田郷」を手に入れた伊予内侍は、まもなく立券の手続きを遂げ、数年前の長寛二年(一一六四)に後白河院の発願によって建立された京都蓮華王院(三十三間堂)を本家と仰ぐ荘園として成立した。
図24 遠敷郡名田荘とその周辺地域

図24 遠敷郡名田荘とその周辺地域

 荘の領域は現在の名田庄村よりも広く、現在は小浜市域に入る中名田・口名田も含んでいた。つまり、ごく下流部を除けば、丹波や近江との国境にまで達する南川水系地域の大半が名田荘の領域だったのである。実に広大な荘園というべきであるが、その土地の大部分は山であり、平地は川に沿った谷間に細長く続いているに過ぎない。荘園として成立したころにも、田地は南川本流に流れ込む小支流の周囲に少しずつ開かれていた程度であったと思われる。通常、荘園といえば平地に広がる田地を中心とした領域を頭に浮かべるが、名田荘はいわば広大な山と川とをその本体として出発したのである。盛信が伊予内侍に所領を渡す数年前に作成された文書によれば、名田郷の領域は「須恵野」「伊加野」「不可宇野」など六か所の「野」の集合体であったことが知られ、開発済みの田地はごく一部にしかなかったことがわかる(徳禅寺文書二号『福井県史研究』一〇)。「野」にはもちろん田地としての開発予定地も含まれるで あろうが、後述する荘の状況などからすると、領主も必ずしも田地としての開発・用益を最終的な目的とせず、「山野」そのものとしての利用に価値を見出していたものと思われる。山がちな名田荘では、荘民にとっても、また結果的には領主にとっても、山そのものが豊かな財産であったといえよう。
 のちの史料によれば名田荘は「上庄」「下庄」から構成されているが、名田郷の領域はこの「下庄」に相当したと考えられる。「野」からなる名田郷内には、野の名称と同じか(須恵野・深野など)、あるいは別の名称をもつ「村」があり(当岐など)、開発の拠点となっていたようである(同二・三号)。これらの村々には、そののち多少の変化があったが、遅くとも鎌倉初期の建保三年(一二一五)以降、名田荘は南川の上流にあたる上村・坂本村・中村・下村の「上庄」と、下流寄りの知見村・三重村・田村からなる「下庄」とで構成されるようになっている(『大徳寺文書』三六四号)。さらに先の須恵野村、「別納」の井上村、和多田村なども史料上に 顔をみせ、これらが中世の名田荘をなす村々として定着していくのである。



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