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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    一 太良荘
      室町期の在地秩序
 右に述べたように、領家方は南北朝期以降は地頭方の支配のあり方を引き継ぐことにより公田支配の限界を克服しようとしていた。また同じく南北朝期には、鎌倉期のような支配を行なう周辺国人の地頭方代官は荘民や東寺の抵抗によって次第に排除されていった(本章二節参照)。こうして領家方と地頭方は次第にそれぞれ歴史的な固有性を失い、太良荘内部が均質化していく傾向が現われる。南北朝期末より同じ代官が領家・地頭双方の代官を兼ねるようになり、それまで別々に行なわれていた東寺内の領家方・地頭方の評定も遅くとも応永十四年には合同で行なわれるようになっている(タ函六九)。さらに正長二年の検注以後は地頭方地下代官の得分はその年々の納入年貢の五分の一となり、地頭方も所務請負代官制が確定した。
 半済が行なわれてのち、太良荘には新たに本所方と半済方の区分が生じた。文安年間(一四四四〜一四四九)の地震によって破壊された排水溝を埋樋によって修復したのが半済方代官であったように(三章五節四参照)、武田氏領国下では在地における半済方の比重が増加しつつあったが、宝徳二年に守護使不入とされたのちは半済方給人山県氏が守護段銭の徴収や夫役の徴発にあたるようになり、享徳元年(一四五二)には山県氏の被官とみられる包枝清兼が公文に任じられた。長禄元年(一四五七)には荘内の山王社(日吉十禅師社)の四月神事の酒肴料五斗が本所方と半済方で隔年に支給されるようになっており(ハ函三〇三)、在地においては本所方と半済方が支配の枠を超えて一体化しつつあった。こうして、戦国期に「殿様」と称された山県氏を支配者とする在地の秩序が形成されていったのである。



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