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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    一 太良荘
      地頭方
 地頭方は本来の地頭名である久珍名二町三段余を足がかりに、承久の乱後に押領した百姓名三名三町一段余、地頭給(もとは公文給)三町、さらに雲厳の師である凱雲が荘内に建立した薬師堂の寺用田一町二段・馬上免畠七町一段余を加え、領家方百姓名主五名に強制的に請け負わせた二石佃五段(百姓名七名のときは七段)などを基本に構成されている。これらの田畠は領家の支配する公田の対象外たる耕地とされ、百姓名に編成されず、地頭が直接に耕作者を決定する散田として支配された。公田の制約を受けず、百姓名の権利も認めない地頭方の支配は領家方と比較すると次のような特質をもっている。まず地頭手作地(直営地)が少なからぬ比重を占め、得宗地頭のもとでは田二町一段余・畠五段余の手作地があった(『教王護国寺文書』二八九号、オ函一五)。建武元年(一三三四)に地頭方代官脇袋彦太郎は手作田畠三町に荘民六〇〇人余を使役したとされ、応永十四年(一四〇七)には地頭・領家兼務の代官が手作を多く行なったとされているが、これも地頭方においてであろう(は函八六、ツ函一九一)。これと関連して、地頭方が東寺の支配下に置かれたのちも代官は現地支配においてある程度の裁量が認められており、少なくとも貞治二年より地頭分年貢一二〇石余のうち半分が代官得分・不作地・押領地、あるいは百姓への支出分として控除され(このうち代官得分は三一石余、半済により一五石余)、残り半分が年貢負担分とされ(半済により実際は三〇石余)、正長二年(一四二九)に検注が行なわれるまでこれが続けられている(ハ函六二・七一)。次に地頭は公田以外の耕地として畠に注目し、その掌握を進めている。表24にみえる名の畠には段別一〇〇文の銭が付されているが、これを徴したのは地頭と推定されている。南北朝期になって領家方においても畠に対し夏地子(麦地子)・秋地子が取られるようになるが、これは地頭の始めた収取を領家が引き継いだものに他ならない。また延文四年(一三五九)の地頭代官得分のうちには、「時による」とあって収納額は一定していないものの山田年貢二石八斗と麦・豆・小豆など山畠地子一二石がみえており、百姓の山野開発の成果を取り込もうとしている(ハ函四三)。さらに南北朝期の地頭方畠四町八段余の内には平介・平細工など七人が一二〇歩(ほかに一人が一〇〇歩)の年貢銭免除畠をもっていた(ハ函四一七)。この八人はこの免除畠のほかは耕地をもたず、地頭に栗代五〇〇文と近辺の夫役を勤めるほか「地下平民の夫役」を免除されていると主張する「地頭分在家御百姓」であり、地頭方の尻高というところに住んでいた人たちであった(ハ函九四)。また地頭政所屋敷内には「河人」が一段の給地を与えられており(ハ函四一七)、この河人は荘の前を流れる北川などで河猟を行なう人であったと推定される。このように地頭は畠・山河という公田以外の 所に支配を及ぼしており、尻高の非農業民を掌握していたのである。



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