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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    二 斯波氏の越前支配
      守護支配機構
 一般に、南北朝・室町期の守護は京都に滞在するのを原則とした。そのため、国もとに守護代・小守護代などを置いて任国支配にあたらせる一方、京都にも在京守護代や在京奉行などを置いた。南北朝期の越前で史料にみえる守護代とそれ以下の役の在職者をまとめたのが、表18である。

表18 南北朝期越前の守護・守護代など

表18 南北朝期越前の守護・守護代など

 細川頼春の代と文和元年(一三五二)の高経の代には在京・在国両守護代の存在がうかがえるが、分国経営の実務を担ったのは在国守護代である。在京守護代としてみえる細川兵庫助・安威次郎左衛門の二人は越前保(所在地未詳)の領主祇園社の交渉相手として登場し(『祇園執行日記』観応元年十月十三・二十一日条、文和元年十一月二十九日条)、京都における守護の窓口としての機能を果たしていたといえる。
 ところで表18の二宮氏泰は、大野郡泉荘・小山荘領家職の半済分を春日社代官に打渡すよう乙部中務入道に命じており(資2 京大 一乗院文書一三号)
 、その地位は守護代の可能性が残るものの、郡司かもしれない。斯波氏は永和二年(一三七六)ごろ当時唯一の分国越中で郡を行政単位としていたことが知られるし(ゐ函六一)、大野郡でも応仁年間(一四六七〜六九)ころの例ではあるが郡司の存在が確認されるので(資2 醍醐寺文書一三九号)、南北朝末期から大野郡に郡司を置いた可能性はある。ただし、二宮氏泰は当時信濃の守護代も兼ねており、大野郡には乙部中務入道を下して支配にあたらせていたのであろう。



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