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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    二 斯波氏の越前支配
      斯波氏の被官
 明徳三年(一三九二)八月二十八日の相国寺供養に臨む将軍義満に供奉した守護級武士とその随兵を記した「相国寺供養記」によると、斯波義重・同満種の随兵は表19のごとくであった。これによれば、南北朝末期の斯波氏重臣として一〇氏を数えることができる。これ以外に斯波氏分国の行政機構に登用された者を拾うと、細川(完草)・安威・乙部の三氏を加えることができる。この合わせて一三氏ほどの主要被官のなかでも、とりわけその地位が高い中核的重臣とよべるのは、細川(完草)・二宮・甲斐・島田の四氏にほぼ絞られる。この四氏について、南北朝期の主な活動や地位などをまとめたのが表20である。

表19 「相国寺供養記」にみえる斯波氏の随兵

表19 「相国寺供養記」にみえる斯波氏の随兵


表20 南北朝期の斯波氏重臣

表20 南北朝期の斯波氏重臣
 のちの幕府管領細川氏の一族と思われる細川(完草)氏は南北朝初期の斯波家中で最高の地位にあったことがうかがえるが、表19には細川氏の名はなく、その地位は長くは維持されなかったらしい。出羽守や兵庫助の高い地位は惣領家細川氏の家格がもたらしたものであって、斯波氏との関係の親密さによるものではなかったのだろう。ちなみに、兵庫助はそののち斯波氏を離れ、惣領家細川頼春のもとで越前守護代を務めている(表18)。
 二宮氏は源姓・藤原姓の二家があるが、表20で藤原姓と目されるのは内藤入道道智ぐらいで、主要な地位にあったのはおおむね源姓二宮氏と思われる。この家は貞治年間(一三六二〜六八)以降活動が顕在化し、斯波氏分国の守護代や郡司などの要職を占め、南北朝後期の斯波家中では後述する甲斐氏と並ぶ最高の地位にあったとみられる。ただしその出自は斯波氏根本被官ではなく、おそらく本来は独立した御家人であったのが、斯波氏の軍事指揮下で参戦しているうちに関係を強めていったものと思われる。
 甲斐氏は『太平記』をはじめ南北朝前半期の史料に所見がないが、斯波家の「執事」といわれる被官で(「常楽記」『群書類従』所収)、下野国佐野荘(栃木県佐野市)を本貫とする佐野氏の一流ではないかと思われる(資2 醍醐寺文書七四号)。南北朝末期から表舞台に登場した甲斐氏は室町期を通じて斯波家中最高の地位を維持し、将軍家とも緊密な関係を保ち権勢を誇った(三章一節参照)。
 島田氏は南北朝期の所見をみる限り重臣とはよべないが、応永八年(一四〇一)に信濃守護代になっているほか(「吉田家日次記」同年四月二日条)、その後も重臣の地位を保っている。
 以上の四氏を出自別にみると、甲斐・細川・二宮氏が内乱の過程で斯波氏に属した分国以外の武士で、斯波氏分国の出身者は島田氏が越前出身の可能性を指摘できる程度である。先にあげた一三氏まで広げても、分国内武士と目されるのは安居氏と斎藤氏(ともに越前武士か)ぐらいである。つまり、南北朝期の斯波氏権力を最も身近で支えた重臣層の中核は、甲斐氏や二宮氏のような分国以外の出身者が占めたのであり、斯波氏が本国として最も重視した越前の国人からの登用は限られていたといえよう。



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