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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    一 幕政の動きと斯波氏
      康暦の政変
 斯波氏は、分国の喪失、高経の死という最大の危機も、意外に早く脱出することができた。杣山城攻めにおいて目立った戦闘がなんら伝わっていないことからもうかがえるように、もともと幕府側には斯波氏を滅亡させる意志がなかった。だから、高経の死後まもなく子息の義将が上洛して赦免を乞うと、義詮はただちにこれを許した(『師守記』貞治六年九月四日条)。翌応安元年(一三六八)二月、桃井直常が幕府に叛して越中に下ると、義将は直常の弟直信のもっていた越中守護職に任じられ、桃井追討軍の大将として越中に下った。義将は越中の桃井勢を応安四年八月ごろまでにほぼ討ち取り、幕府内における地位を回復した。
 永和三年(一三七七)六月、越中の国人が斯波氏に反抗して守護代義種と合戦し、新川郡太田荘(富山市)に逃げ込んだので、義種は同荘を焼き払った。ところがこの太田荘は時の管領で斯波氏の宿敵細川頼之の所領であったため、にわかに政情は緊迫した(『後愚昧記』同年七月十三日・八月七〜十日条)。このときは大事にいたらなかったものの、康暦元年(一三七九)閏四月十四日、土岐頼康・京極高秀ら反細川派、すなわち親斯波派の諸将は花御所を囲んで将軍義満に頼之追放を迫った。義満がこれに同意したため頼之は四国に下り、五月三日には義将が管領に就任した。康暦の政変である。こうして父高経の後見を受けた前回を除けば初めて幕政の中枢につくことになった義将は、翌二年七月までに越前守護畠山氏との間で越前・越中の守護職を交換したといわれ、ここにようやく越前は斯波氏の分国として固定することになるのである。義将はこのあと明徳二年(一三九一)三月まで管領に在職するとともに、至徳元年(一三八四)に信濃、同四年に加賀の守護職をそれぞれ獲得するなど、斯波氏発展の基礎を築いた。



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