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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    一 幕政の動きと斯波氏
      興福寺の強訴と貞治の政変


写真103 杣山城跡(南条町阿久和)

 貞治二年七月十日、佐々木道誉ら反斯波派守護が兵を挙げるとの噂が広がり、京都が騒然となった(『後愚昧記』同日条)。高経が道誉派の石橋和義から若狭守護職を奪って義種を守護としたのはこの直後のことであり、ついで、先に道誉の摂津守護職を奪っていたのに加えて出雲守護職までも改替し、ここに斯波氏と道誉らとの対立はもはや抜き差しならない状態になってしまった。そうしたおり、斯波氏にとって大変な難題が持ち上がった。貞治三年十二月、興福寺衆徒が坂井郡河口荘に対する高経の押領停止を訴えて、春日社の神木を入洛させたのである(「大乗院日記目録」)。『太平記』巻三九は「(高経は)河口庄ヲバ一円ニ家中ノ料所ニゾ成タリ」とするが、実はこの河口荘押領の中心人物は朝倉遠江入道宗賢(高景)であった。興福寺の訴えに対して幕府は春日社造替棟別銭を賦課することにし、ついで摂津国鵜殿関(大阪府高槻市)を春日社造替料所としてその関料五〇〇貫文などを春日社に納入することとしたため、同五年五月ようやく神木帰座が決定した(「東金堂細々要記」)。神木帰座の期日は八月十二日と決まったが(同前)、八月八日、将軍義詮は突然高経追討の命を出した(「吉田家日次記」同日条)。高経は一族挙げて越前に逃げ下り、南条郡杣山城に篭もった。これを貞治の政変という。斯波氏没落の直接の原因は興福寺の強訴であろうが、真の主謀者はいうまでもなく佐々木道誉であった。
 幕府は斯波氏の分国三か国を畠山義深(越前)・一色範光(若狭)・桃井直信(越中)に与えるとともに、北陸や美濃・近江の軍勢を越前に送り杣山城を囲ませた。そのうち翌貞治六年七月十三日、高経は杣山城で病死してしまった。同年生まれの尊氏に遅れること九年、六三歳であった(『師守記』同日条)。



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