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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    一 幕政の動きと斯波氏
      康安の政変
 高経は幕府方に復帰したあとも、尊氏の信頼をなかなか取り戻すことができないまま、延文三年(一三五八)四月尊氏の死を迎える。そして十月には細川清氏が幕府執事に就任した。清氏は若狭守護であったが、前年斯波氏のもつ越前守護をも望んで容れられず(『園太暦』延文二年六月十五日条)、阿波に帰国したことからも知られるように斯波氏の政敵であったから、この清氏のもとでは当然高経は冷遇された。
 ところで細川清氏の最大の政敵は、幕府内に隠然たる勢力をもつ佐々木道誉であった。康安元年(一三六一)九月、この道誉が中心となって細川清氏を追放するという康安の変がおこった。道誉は娘を斯波氏頼と結婚させて斯波氏と提携していたから、斯波氏がこの政変で道誉側に加担したことは間違いない。幕府内での斯波氏の地位は急速に回復し、翌二年七月に高経の四男で一三歳の義将が将軍家執事となった。このとき道誉は婿の氏頼を推したが、義将を偏愛する高経が反対したと『太平記』巻三七は伝えるから、これで斯波氏は道誉の支持を失ったことになる。ともあれ義将の後見として幕政を主導することとなった高経は、嫡孫義高を幕府引付方頭人の一人に入れ、貞治四年(一三六五)には末子義種を侍所頭人につけて幕府の要職を斯波一族で固めた。この間守護職も康安元年に越中を初めて獲得し、若狭も貞治二年に回復した。こうしていわば第一次斯波氏全盛時代が築かれたのである。しかしその過程で道誉を反斯波陣営に追いやったことは、高経最大の失策であった。



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