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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    一 幕政の動きと斯波氏
      観応の擾乱と斯波氏
 南北朝期の大部分と室町期の越前を、守護として支配したのは斯波氏である。斯波氏はいわゆる三管領家の一つとして幕政に重きをなし、数ある足利一門でも最高の家格を誇った。建武新政権下で越前守護となった斯波高経が、室町幕府のもとでも初代の越前守護として北陸の南軍追討に活躍したことは、すでに述べたところである。しかし、南北朝期の斯波氏の越前支配は必ずしも順調に進展したわけではなく、幕府内の政争の波のなかで高経の立場が揺れ動いたために、二度にわたって越前守護職を失うこととなった。
図21 斯波氏略系図

図21 斯波氏略系図




表17 南北朝期斯波氏の管領・守護在職一覧
表17 南北朝期斯波氏の管領・守護在職一覧
 『太平記』巻三二によると、斯波高経は新田義貞を討ったとき手に入れた源氏累代の名刀鬼丸・鬼切を提出するよう足利尊氏から求められたさい、別の太刀を差し出した。これを知った尊氏が高経に恩賞を与えなかったので、高経は足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱で直義方に与したと伝える。太刀の話は別として、高経が建武・暦応の戦闘ののちさしたる恩賞を得なかったことは事実であるし、高経と直義の親密な関係は、康永三年(一三四四)五月十一日という時点で直義の新熊野社参詣に高経が自邸を精進屋として提供していることから確認される(『師守記』同日条)。越前守護職は貞和二年(一三四六)閏九月以前に高経から細川頼春に替わっている可能性が高いので(資2 北野神社文書一号)、高経は観応の擾乱を待たずに、尊氏の信頼を失っていたことがわかる。同五年八月高師直と直義の対立が表面化したとき、高経は氏経・氏頼らの子息とともに直義邸に駈けつけた(『太平記』巻二七)。ただし、弟の家兼はこれに加わらなかった。直義が京都を脱して挙兵した観応元年(一三五〇)十月には高経は態度を明確にしなかったが、桃井直常ら北陸の直義党が京都に迫ったとき、京都を出て八幡(京都府八幡市)の直義の陣に加わった。翌二年二月の和睦後は直義が幕政の主導権を握ったため、高経の越前守護職は回復されたとみられる。七月末対立が再燃して直義が京都を逃れ敦賀に下ったとき、高経もこれに従った(『園太暦』観応二年八月六日条、『太平記』巻三〇)。しかし十月になると直義が越前を離れ鎌倉に下っていることからすると、このころ高経は尊氏に帰順したとみられる。このあと尊氏と南朝の和睦(正平一統)、直義毒殺、南朝軍の京都占領、尊氏の嫡子義詮による京都奪還と続く混乱のなかで、高経は若狭守護に復帰した弟家兼とともに義詮に協力を惜しまなかったが、尊氏の信頼を回復することができず、文和三年(一三五四)九月には家兼の若狭守護職が細川清氏に替えられてしまった。同年十二月山名時氏が尊氏と対立する直冬(尊氏の庶子で直義の養子)を奉じて山陰から京都に迫ったさい、高経がこれに応じて越前で挙兵したのは当然のなりゆきであった。合戦は翌四年正月から京都を舞台として始まり氏頼らが奮戦したが、六月には直冬方が京都から敗走し、高経も越前に帰国した。そして翌五年正月九日、高経は再び幕府方に帰降し許されるのであるが(『園太暦』同日条)、これはこの間ひとり幕府方にとどまり越前守護に在職していた嫡子氏経の運動によるものといわれている。



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